鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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持七処と、肉色で、左手に人頭幢を執り右手を与願印とする焔魔天の姿を観じるよう述べる。同文の道場観は守覚『沢鈔』に引用される(注18)。心覚『別尊雑記』巻四十六「焔魔天」(注19)に先師・成蓮房兼意(1072-?)説の道場観を記すが、これは実運『秘蔵金宝鈔』七「焔魔提婆」と大同である。ここで寛助に至るまでの広沢流の付法を確認すれば「益信─宇多(寛平)─寛空─寛朝─済信─性信─寛助」となり、また兼意の付法は「性信─寛意─兼意─心覚─元性」となる(注20)。寛助の4代前にあたる寛空とその師・宇多天皇(寛平)は、淳祐とともに般若寺観賢(853-925)から法を受けており(注21)、寛助と寛意の師である性信(1005-1085)が済信から灌頂を受けた際、嘆徳を勤めたのが仁海であったことは、仁海と性信の師資関係を示している(注22)。また醍醐寺勝賢は元仁和寺の僧で、実運に伝法灌頂を受けた後、醍醐寺を離れ高野山に籠居し、所伝の尊法などを心覚に授けたという(注23)。このような小野・広沢両流の活発な交渉を踏まえれば、淳祐の「石山次第」や道場観、小野醍醐で習伝されてきた修法次第が、広沢流における焔魔天の図像や焔魔天供へ与えた影響を認めてもよいのではないだろうか。東密では相伝された現図系胎蔵界曼荼羅に依拠する焔魔天の図像は、淳祐の「石山次第」や道場観、修法次第とともに強い規範性をもって相伝されてきたのである。2『別尊雑記』本について『別尊雑記』は、成蓮房兼意の『成蓮鈔』(20巻)、成就院寛助の『別行』(7巻)、勝定房恵什の『十巻鈔』(10巻)、勝倶胝院実運『玄秘鈔』(3巻)・『諸尊要鈔』(15巻)および菩提院流の諸鈔を類聚したもので、著者心覚との法脈関係の強い順に四師の説が引用され、きまって3番目の恵什の項の後に図像が挿入される(注24)。『別尊雑記』本もその例から漏れず、恵什の引用箇所の後ろに掲載されている。『別尊雑記』本の構成は、内院と外院に区画され、内院に焔魔天とその左右前に「后」と記す2尊を配す。外院の上方中央には太山府君、その左右に聖天と成就仙を置き、下方中央には五道大神、その左右に司命と司録を置く。そして外院の左方中央には荼吉尼を、右方中央には遮文荼を配す。各尊の印相や持物、着衣や座具まで明瞭に描き表わされており、古い東密系焔魔天曼荼羅の一形態を示す貴重な図像である。各尊の脇には尊名を書き入れ、また外院の左側、聖天と荼吉尼の間に「右持人頭幢者― 341 ―― 341 ―

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