鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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注⑴①速水侑『平安貴族社会と仏教』吉川弘文館,1975年、②大原嘉豊「京都国立博物館蔵 閻魔天容を他の作例に求めるとき、円珍請来様の図像や台密が専修するという烏蒭沙摩明王に見出すことができるのである。おわりに─今後の課題と展望東密系焔魔天曼荼羅の絵画作例は、表現こそ時代によって変化を見せるが、いずれも「『四家鈔図像』本─『別尊雑記』本」の系譜であり、東密系焔魔天曼荼羅の成立を考察する上で等閑することができない。これまで東密系・台密系と分類されてきた焔魔天曼荼羅であるが、『別尊雑記』本の眷属の図像を探れば、その一部、すなわち荼吉尼、成就仙、遮文荼、聖天の4尊は台密系図像との親近関係が見出せた。一方で、本論中では取り上げなかったが、『別尊雑記』本の后、妃の図像は、園城寺本や京都国立博物館本といった台密系焔魔天曼荼羅の絵画作成と比較するとき、妃はともに払子を手にする図像で一致するが、后の印相が異なっている。しかし近年紹介された台密系焔魔天曼荼羅の愛知県美術館本玄証筆焔魔天曼荼羅図像(注29)では、后の手勢は『別尊雑記』本と一致しており、東・台密の図像の相互影響を垣間見ることができる。本研究では東密系焔魔天曼荼羅を構成する諸尊は台密系とされる図像と一致することから、その成立背景に台密、さらに踏み込めば円珍ゆかりの図像の存在とその影響を認めることができた。現在に伝わる台密系焔魔天曼荼羅は、『覚禅鈔』(注30)や『白宝口抄』(注31)に「大原図」として載せる尊名配置図を原形とする指摘がある(注32)。「大原」が天台学僧・長宴(1016-1081)と看做し得るならば、池上皇慶(977-1049)口、長宴記『四十帖決』が長宴存命中にすでに東密で書写され参照される資料であったこと(注33)、池上皇慶によるとみられる「焔魔天供略次第」(注34)の存在と勘案して、この時期の東・台密の教相や事相の相互影響が、両密の焔魔天曼荼羅及んだ可能性もあろう。しかしながら具体的な事象や成立の中心となった人物、法流など未だ明確ではなく今後の課題としたい。曼荼羅図」『國華』1445 國華社、2016年、63-65頁⑵①安嶋紀昭「台密の焔魔天曼荼羅について─京博本と園城寺本」『MUSEUM』487 東京国立博物館、1991年、4-25頁、②注⑴-②⑶『大正蔵経』21、30頁a⑷『大正蔵経』18、923頁b⑸『大正蔵経』21、385頁c― 346 ―― 346 ―

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