鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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生まれたばかりの妹も死去するという突然の不幸に見舞われた。それを機に、小夢と弟・醇は、父が跡取りとなるはずであった仙北郡六郷町の諏訪神社(現・美郷町の秋田諏訪宮)に預けられることになる。諏訪神社では、姉・ツナが養女となって暮らしていた(注2)。幼少期から「死」と向かい合わざるを得ない状況にいたこと、神職を司る家庭に暮らし神聖な存在を身近に感じていたこと、姉や乳母から聞く物語から連想される幻想の世界に安らぎを覚えていたこと、そして漢学者であり新聞社勤務であった父から最新で豊富な知識を享受できたことは、のちの小夢の制作活動に大きな影響を与えたと考えられる。文学の道に進むか、絵の道に進むかで迷ったのちに、小夢は画家となることを決意した。明治41年(1908)、旧制中学卒業後16歳で上京すると、はじめ白馬会洋画研究所で洋画を、のちに川端画学校で日本画を学び始めた。川端画学校時代には冊子『天眞』(川端画学校出版部)に、短歌や小説を寄稿している。絵画と物語は、小夢にとって制作の両輪であり、生涯に渡って重要な主題となった。1)日本画現存している小夢の絵画作品で最も古いものは、明治末期、川端画学校時代に描かれたものである。これに先立って、白馬会洋画研究所で学んだとされるが、その頃の作品は確認されていない。しかし、画学校での作品を見る限り、この段階で既に高い描写力を具えていたことが伺える〔図1〕。画学校卒業後は「美術院其の他二三の展覧会へ出品し、その技倆を謳はれた」(注3)とされているが、日本美術院での記録は確認されていない。初期の活動を伝える記録としては、大正4年(1915)の巽画会機関誌『多都美』第9巻第4号に、加藤小夢の《置炬燵》(所在不明)〔図2〕が紹介されている。《置炬燵》は、同年2月の巽画会東京本部研究会に出品されたもので、一等賞受賞作品となっているが、本作に対する「批評速記」には、「浮世絵と云ふものを通じて徳川期の何だか頽廃した、自堕落な、さうして心持ちの快いものを描かうとしたので、それは稍々効果があつたらうと思ふ」(鴨下晁湖)、「女と云うことに注意して、熱心に女の心情から見られむ事を希望します」(菊池華秋)、「一寸見た時に綺麗だからアゝとは思ふが、兎に角人間と云ふ事だけは落第でせう」(橋本春陵)といった、やや辛辣な意見が並んでいる(注4)。また、大正4年(1915)の『多都美』第9巻第8号には「七月絵画研究会」における三等賞受賞作品として加藤小夢の《習作》(所在不明)が掲載されている(画像は― 352 ―― 352 ―

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