鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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未掲載)。女と蚊帳を退廃的に描いたとされる《習作》について、この号の「批評速記」では、「北斎の春画を見て下さい。北斎は肉に触れて居ります。真剣になつて描いて居ります。作者は迷つて描いて居る。(中略)春画以上に淫猥であとは何等価値がない。作者は大に態度を変えて欲しい」(鴨下晁湖)、「凄味を見せる為めに人物を馬鹿に痩せこけた足や手を有つて居るやうに見える」(伊藤順三)と酷評されている(注5)。大正8年(1919)の『新興美術』第3巻第6号には、加藤小夢が芸術社展覧会に出品した記録が残っており、小夢の《部屋の外》と《生島》(共に所在不明)について「氏の諸作では、ある淋しい影がそのいづれもの作の底を流れてゐる。それに色彩が濁つてゐるので、人にあかるい好感を与へるといふ側の作品では無論ない。しかし技巧には、幾分いじけて渋滞してゐるやうなところも見えるものゝ或る確かさをも思はせるし、内容的にも多少考へるところがある」(眞島末吉)、「加藤小夢君、此の人は小品をかゝせると、一種デカタンのやうな面白いところを出すが、大作ではいつも失敗してゐるやうである。君が『揚幕』に書いてゐるペン画の挿絵は天下一品であるが、肉筆のやゝ大きいものになると、往々失敗してゐるやうである。それはあまりに克明にかき過ぎ、従つてそこに溌溂たる趣を欠くが為めであらうと思ふ」(古川修)と評している(注6)。この大正8年(1919)の芸術社展覧会の後、小夢が何らかの展覧会に出品した形跡は見つかっていない。一方、この年、小夢は秋田県雄勝郡湯澤町(現・湯沢市)で初となる大規模な作品頒布会を開催している。この会は、大正初年代に知り合ったとされる同町の文人・帯屋久太郎(本名:山内久太郎)の世話により実現しており、小夢にとって大きな転機になったと考えられる。それ以前に描かれた《火桶》〔図3〕からも明らかなように、初期の小夢は敬愛する竹久夢二の影響を多分に受けた作品を描いていた。しかし同時に「小夢式」ともいえる、細長くデフォルメされた狐顔の女性像も姿を現しつつあった。そして大正8年(1919)に、帯屋のために描かれた《若菜姫》〔図4〕では「日本の古典や伝承文学を主題に」「妖艶な女性の美しさを」「衣装図案に対するこだわりとともに」描く様式が確立されている。おそらく小夢は、大正8年(1919)の頒布会を一つのきっかけとして、日本画壇と距離を置き始めたのではないだろうか。そして、愛好家中心の頒布会へと移行していった。そのことが、自己の表現に対する迷いを払拭させ、大正12年(1923)に描かれた初期の代表作《花魁》〔図5〕へとつながっていったのだろう。大正期は、官展系の画家たちや在野の画家たちが、それぞれに取り組みを模索して― 353 ―― 353 ―

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