いた時期である。大衆芸術としては大正ロマンの叙情的な表現が咲き誇り、その一方では幕末の退廃表現と西洋の世紀末美術の流れを汲む大正デカダンスの表現が台頭していた。波乱に満ちた幼少期からの心象風景に加え、こうした時代背景が神秘的な翳りを宿す小夢芸術に影響していたのだろう。2)挿絵・装幀小夢が挿絵画家としての活動を開始したのは、大正4年(1915)頃と思われる。同年の『淑女画報』12月号(博文館)にカット〔図6〕が掲載されており、大正5年(1916)からは『女学世界』(博文館)にもコマ絵が多数取り上げられている。同年5月発行の『女学世界』春季増刊号から翌年にかけては、読み物頁の執筆も担当し、そのほとんどに自身が挿絵を添えた。大正6年(1917)には『新脚本叢書』(平和出版社)の装幀を手がけたことを皮切りに、脚本家・岡本綺堂の『半七捕物帳』や『綺堂脚本十種』(ともに平和出版社)の装幀、そして、歌舞伎役者・中村吉右衛門の『揚幕』(揚幕出版所)の扉絵〔図7〕などを立て続けに担当している。小夢は川端画学校時代、役者に憧れる心臓を患う青年をモデルにした小説「幻影」を執筆しており、そうした伝統芸能に対する強い関心が仕事にもうまく結び付けられる形となった。作風については、日本画と同様、初期には夢二の影響を強く感じさせるものと、小夢独自の妖艶な雰囲気をまとったものが混在しているが、大正末期になる頃には、細長くデフォルメされた狐顔の女性を流麗な曲線で描く小夢式がほぼ完成された〔図8〕。大正末期から昭和初期にかけての出版業が活況を呈した時代には、小夢も活動の幅を広げ、『婦人』(大阪朝日新聞社)、『文芸倶楽部』(博文館)、『週刊朝日』(朝日新聞社)などの雑誌にも挿絵を描いた。そして、作家・矢田挿雲や民俗学者・藤沢衛彦に見込まれて、挿絵や装幀を手がけるようになる。昭和5年(1930)には、人気挿絵画家の描き下ろし作品による『日本挿画選集』(ユウヒ社)に《高野聖》が、また昭和10年(1935)には『名作挿絵全集』(平凡社)に《唐人お吉》が掲載され話題となった。小夢芸術を解する芸術仲間や出版関係者、そして愛好家によって支えられた挿絵画家としての活動は、軍国主義的風潮が強まる昭和10年代(1935-)からいったん途絶えることになる。そして戦後、昭和20年代半ばにひとたび復活するが、以降は体調がおぼつかず、表舞台からひっそりと身を引くことになった。― 354 ―― 354 ―
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