3)版画小夢は大正末期頃から自宅アトリエを「夜や華か異い相そう画が房ぼう」と称し、ここを版元として版画の自費出版や日本画の頒布を始めた。自身は絵師と版元を兼ね、彫りと摺りは職人に委ねる方法には、多分に幼い頃から心酔していた浮世絵師たちの影響が表れている。そして同時に、西洋の世紀末美術や象徴主義に触発された新たな表現を模索していた姿も浮き彫りになった。「豊国も写楽も知らぬ世界をばあこがれて、ビアズリー、ベックリン、ムンク、ロダン、ダビンチ等に驚異を感じ興奮を覚えて独自の境地を開き優奇世絵を描く」(注7)の言葉どおりに、中央画壇と距離を置き、存分に自身の表現を追求しようとする姿勢の表れが「夜華異相画房」の設立であったと考えられる。また、在野の画家にとって未だ作品の流通体制が整っていなかった時代、こうした画房の設立は、小夢が考えた方策の一つであり、この背景にも芸術仲間や愛好家の存在が大きく影響していたのだろう。昭和7年(1932)、小夢は夜華異相画房から『橘小夢選画集』の第1号としてプロセス版《水魔》〔図9〕を発表した。本作には女性を水底へといざなう河童の姿が描かれているが、具体的な物語の一場面ではない。死の場面で口元に微笑を浮かべる女性の姿からは死に対する恍惚すら感じられ、深淵を覗き込むような魔性と神秘性が混沌と一体化されている。聖と俗、苦悶と陶酔など、相反する感覚を融合させる小夢の美意識が顕著に表れた一枚であり、本作に対する思い入れの強さが感じられる。しかし、本作は内務省より発売禁止を通告され、没収の憂き目に遭った。前年に満洲事変が勃発し、戦争の暗い影が日本を覆い始めていた時勢が影響したのだろう。その翌年以降も夜華異相画房からの版画出版は続けられたが、当局の目を意識してか、描かれたのは《唐人お吉》《お蝶夫人》など物語の主人公や、《やよいひばり》《中村もしほ》などの役者絵であった。もしも小夢が、自由な表現の許される時代に生きていたら、《水魔》のように観る者の想像を掻き立てる魅惑的な作品を多く残していたことだろう。4)ペン画小夢が画学生だった明治末期は、文芸・美術雑誌『白樺』が創刊されるなど、美術界でも西洋の思想・表現が広く紹介された時期であった。小夢が傾倒した世紀末美術、象徴主義の画家たちも『白樺』で取り上げられており、絵画のみならず芸術全般に強い関心を寄せていた小夢が、こうした雑誌類や展覧会から情報を得ていたことは想像に難くない。中でも、白黒のペン画で鬼才と謳われたオーブリー・ヴィンセント・― 355 ―― 355 ―
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