注⑴ 中村圭子編『橘小夢画集 日本の妖美』河出書房新社、2015年 中村圭子編『橘小夢 幻の画家 謎の生涯を解く』河出書房新社、2015年⑵ 則幹は諏訪神社の跡取りとして齋藤家に養子入りしていたが、請われて秋田新報社(現・秋田魁新報社)の職に就いていた。明治21年(1888)、秋田新報社は知事と対立し発行停止処分を受け、のちに則幹も官吏侮辱罪で禁固1ヶ月、罰金5円の処分を受けている。当時、刑罰を受けた者が神職を継ぐことは許されていなかったため、則幹は神職の継承者という立場を離れた。そして長女・ツナを婿取りの養女として諏訪神社に残し、秋田市に居を移している。しかしそ美術』の情報と共に、本作ご所蔵の連絡を受けた。唐の文人・柳宗元の『龍城録』に見られる伝説の美女「羅浮仙」を日本の女性に置き換えたような作品である。「羅浮仙」は、菱田春草ら明治以降の日本の画家にも多く取り上げられた。隋の趙師雄が梅の名所・羅浮山に宿った折、芳しい美女と出会い酒を酌み交わすが、目が覚めると美女の姿は消えていた。美女は梅花の精(仙女)であり「羅浮仙」と呼ばれたという。小夢は《唐人お吉》や《お蝶夫人》など悲劇の女性に加え、男性を惑わす宿命の女性(時に魔性の女性)もよく描いた。本研究により作成した作品集には、上述の3点を含む全189点の作品・資料を収録し、原則として編年順に配することで、小夢の画業を俯瞰できる内容とした。おわりに橘小夢の画業を、新出の資料も交えながら概観してみると、改めて不遇の画家であったように感じられる。震災で画集出版の機を逸し、戦争により作品の発禁処分を受け、自由な表現が許されるようになった戦後には、持病の悪化に苦しめられた。その一方で、多くの作家が世情を鋭敏に感知しながら現実を生き抜いていたのに対し、小夢はむしろ現実や時代に抗うかのように己の幻想と夢の世界に生き、その聖域を護り抜いていたようにも感じられる。広く日本と西洋の芸術を見渡し、浮世絵を始めとする日本の伝統的な美術に学び、またその浮世絵の影響を受けた西洋の世紀末美術からも学んで自身の表現を追求した。そうして日本の妖美を描き続けた小夢の作品群は、現代に生きる私たちに、日本の美意識を再認識させてくれる。長く筆を置いていた小夢が、晩年になって家族のために描いた《地獄太夫》〔図18〕は、小夢の代表作の一つである。この地獄太夫のように、小夢の描く女性像は、いつの時代も凛とした強さを醸し出している。その様には、度重なる不遇にも屈せず、己の信念に忠実に生きた小夢自身の精神が重なって見える。― 358 ―― 358 ―
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