ルネッタ中央のメダリオンには肖像が描かれ、その枠には「最高司祭バレンシアのアレクサンデル6世・ボルジア(ALEXANDER VALENTINVS BORGIA PONTIFEX MAX. VI)」と記されている。それゆえ、この紙葉の制作に教皇アレクサンデル6世が関与したこと、それは在位期である1492年から1503年の期間であったことがわかる。アントニオ・ダ・モンツァの作品の由来とローマ滞在に関する問題フラ・アントニオの現存作品の多くは、ミラノのフランチェスコ会修道院と、ローマの教皇庁およびサンタ・マリア・イン・アラチェリ教会[以下、アラチェリ教会と記す]に来歴を持つものに二分される。ミラノに由来するとされるのは、この町のブライデンセ図書館の詩篇唱集(Salterio diurno ARM I 17)のイニシャルD「ダヴィデ」〔図3〕や装飾イニシャルIなどの紙葉である(注2)。また、J・ポール・ゲッティー美術館(ロサンゼルス)のイニシャルR「復活のキリスト」〔図4〕を含むグラドゥアーレ(Ms. Ludwig VI 3)も、ミラノに由来する可能性が指摘されている(注3)。それに対して、ヴァティカン図書館の『アレクサンデル6世のクリスマスミサ典書』(Borg. lat. 425)の「磔刑図」は教皇庁、つまりローマに来歴を持つ(注4)。また、アルベルティーナ所蔵の「ペンテコステ」を含む4枚の紙葉断片(Inv. 17644-17647)、そして、アラチェリ教会のグラドゥアーレに描かれていた聖人像を伴った3点のイニシャルは、この教会に保管されていたことが確認されている(注5)。これらの作品の来歴、そして様式的特徴から、この画僧は1490年頃までミラノで活動した後に、ローマにて教皇やアラチェリ教会のために写本装飾画を描き、その後ミラノに戻ったと考えられていたが、ローマでの活動には疑問も付されていた。というのも、写本は一葉ごとに写字生や画家が描き、後の工程でまとめて製本するのが一般的で、特定の紙葉だけ別の場所で制作することも可能であった。それゆえ、教皇庁の写本の一葉であっても、ローマで制作されたか定かではない。実際に、この画家の「磔刑図」に関して、この紙葉だけ羊皮紙の質が異なり、裏面も空白のまま残されているため、製本の際に挿入された可能性が指摘されている(注6)。このような写本制作独自の工程ゆえ、アントニオがローマにて制作を行ったかという問題は曖昧であった。さらに、クアットリーニは2000年に発表した論文で、ブライデンセ図書館の詩篇唱集を基準とした様式的・写本学的類似を理由に、アントニオに帰属される殆どの写本はミラノで制作されたと結論付けた(注7)。しかしながら、クアットリーニの論― 364 ―― 364 ―
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