「ペンテコステ」とボルジアのエンブレムス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』には、以下のようなエピソードが記されている。キリスト降誕の日、皇帝オクタウィアヌスがシビュラの託宣を聞くための部屋にこもっていると、太陽の周りの金色の光輪に、祭壇の上に立ち、子供を胸に抱く乙女が現れた。シビュラがこの光景を皇帝に指し示していると、天から皇帝に声が届き、「これは、天の祭壇(ara coeli)である」と伝えた。シビュラは皇帝に対し、この子を崇敬するよう言い、その後、この部屋は聖母に捧げられて「天の祭壇の聖母マリア(Santa Maria in Aracoeli)」と呼ばれるようになった(注12)。この伝説がアラチェリ教会の起源である。12世紀になると、皇帝に託宣を与えたシビュラは、ティブルのそれであるという説が流布した(注13)。このエピソードは、バルビエーリの書の挿絵や、ギルランダイオによるサンタ・トリニタ教会壁画に描かれている〔図15、16〕。アルベルティーナの装飾枠には、皇帝像が欠けているものの、ティブルのシビュラ、そして金色の輪の中で幼子を抱くマリアが描かれている。ブライデンセ図書館の詩篇唱集(f. 30v)でも、メダリオンの中に類似する「授乳の聖母」が描かれてはいるが〔図14〕、ウィーンの聖母子のみ、天を想起させるケルビムを伴った光輪が描かれていることは、左右のメダリオンがアラチェリ教会の縁起を表していることを示す。アラチェリ教会はローマにおける最も重要なフランチェスコ会修道院であり、この共同体に属するフラ・アントニオはローマ滞在時にこの場所に逗留し、そこで制作活動を行なったのだろう。ロートやカシャーロなどもアラチェリ滞在の可能性に言及している(注14)。また当時、アラチェリ教会には、この図像を表した祭壇浮彫やピエトロ・カヴァッリーニによる祭壇上の壁画(現存せず)が存在していた(注15)。さらに、16世紀初頭に教会に置かれたラファエロの《フォリーニョの聖母》に描かれた金輪を背にする聖母子は、壁画の影響を受けてこの図像を描いたものだとされる(注16)。このように、アラチェリ教会にとってこの逸話が頻繁に図像化されたものだったことは明らかである。アントニオ・ダ・モンツァは、この聖堂の伝説と図像をローマ滞在中に身近に学び、写本の装飾として取り入たのだろう。次に、グロテスク装飾だけでなく、「ペンテコステ」にも、ローマと関係する図像がさりげなく組み込まれていることを確認しよう。「使徒行伝」で語られているペンテコステ(聖霊降臨)とは、キリスト昇天後の五旬祭の日、エルサレムの家に集う聖母と使徒たちが聖霊に満たされて様々な国の言葉で語り出すエピソードで、教会の誕― 367 ―― 367 ―
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