央連合が設立された際には共同設立者に名を連ねるほか、同連合主催の産業芸術振興を目的とした展覧会では、作家らの作品研究に資するよう、自身の陶器コレクションを貸し出している。第三共和政に移行した後は、閉鎖の危機に直面したセーヴル製作所に1872年に設けられた、製作改良委員会のメンバーに任命されたほか、1876年には、1878年パリ万博の陶器部門の出品を検討する委員会メンバーも務めた。最晩年の1887年にはセーヴル製作所のディレクターにも就任しており、写真〔図4〕は、デックが窯の状況を見る様子を伝えている。同年には『陶器』(注6)という、デックの技術が惜しげもなく盛り込まれた著作を刊行し、陶芸家の育成にも意欲的に取り組んだ。デックは19世紀フランスの陶芸界において、自身の制作に止まらず、産業/装飾芸術振興運動の盛り上がりに共鳴し、精力的な活動を行った人物と言えるだろう。その後体調を崩したデックは、1891年5月15日に死去する。火を意のままに操り、多様な作品と色彩を世に送り出したデックの墓碑銘には、「彼は天上の火を盗んだ」と記されている。3.デックの制作概要それでは、デックの制作概要を見ていきたい。中でも、展覧会で光が当てられることの少ない、デックの原点となったタイル制作は、重点的に考察する。はじめに、デックが徒弟として修行を積んだストーブ製造業者ユジュランの製品を見て、壁面が陶器製のタイルで構成された、ストーブ・タイルのイメージを確認しよう〔図5〕。デックが誕生したゲブヴィレールに所在するフロリヴァル博物館には、デックによるストーブ・タイルの1850年の作例が残っている〔図6〕。こうした経験は、その後デックを、ストーブの用途に限らない装飾タイルの制作へと導いていく。例えば、第二帝政の建築として有名な、シャンゼリゼ通りに現存するオテル・パイヴァの浴室装飾では、1861年頃から壁面タイル〔図7〕を制作している。オテル・パイヴァは、元パイヴァ侯爵夫人エステル・ラックマンのための邸宅で、1856年頃から10年程かけて建築された(注7)。邸内の装飾には、画家ジャン=レオン・ジェローム等、名だたる芸術家が動員されていることから、デックが装飾タイルの分野で既に一定の評価を得ていることが判る。その後、1878年のパリ万博では、唐草文のような装飾タイル〔図8〕を出品する。このタイルは数枚が連続することで一つの装飾を構成しており、一枚で文様が完結するオテル・パイヴァのタイルと異なっていて興味深い(注8)。デックは絵画的な共同制作でもタイルを用いているが、それについては、次章で考察する。― 376 ―― 376 ―
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