鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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次章では、それらが共同制作に活用された事例を見ていきたい。4.共同制作と産業/装飾芸術振興運動デックの芸術家との共同制作は、1860年頃から自身の陶器工房で行われており、共同制作者数は50人ほど指摘されている(注15)。以下は、デックの共同制作が語られる際、必ずといっていいほど引用されるテクストであるが、民間工房であるだけに売り上げを考えつつも、芸術家が自由に構想して自ら陶器に絵付けし、それをデックが焼成し、完成作を互いに評価しあうのびやかな雰囲気が伝わってくる。週に1回、皆は兄弟のように仲良く、銘々がささやかな額を持ち寄ってピクニックで夕食した。(略)ある日、会食参加者がデザート皿を作らなければならないという提案がなされた。その計画は実行に移され、皿は、デックによって用意された材料を使って画家たちに装飾され、うまく焼成された。窯出し後の最初の夕食では、焼き上がった皿がお目見えする。各々がコメントや友情溢れる批評を述べ、その独創性を、とりわけアモン氏の皿の独特さを楽しんだ。それらすべてを1861年の産業芸術展覧会で展示し、よい価格で売り、売り上げがいかにシェアされるべきか協議した。その結果半々均等に分けることとされた。半分は芸術家に、もう半分は陶芸家に、というように。この原則は工房の決まりであり続けた。それ以来、制作はより顕著に芸術性を帯び、あらゆる分野の装飾を纏うこととなった(略)(注16)。引用文中の画家ジャン=ルイ・アモン(1821-1874年)は、1862年のロンドン万博に出品したデックとの共同制作品で、「アモン氏が皿に描いたファンタジー」と、デックとともに高く評価されている(注17)。実はアモンは、デックと共同制作する以前に、既に1850年頃にセーヴル製作所で共同制作に携わっている。それには当時のフランスの産業を取り巻く情勢が密接に関係しており、ここで触れておきたい(注18)。フランスで産業/芸術振興運動が本格化する端緒としてよく言及されるのが、1851年のロンドン万博である。フランスはそこで英国への遅れを痛感し、以後国の威信をかけて産業振興を推進するが、こうした動きは、セーヴル製作所を含む国立マニュファクチュアでは既に始まっていた。第二共和政下、1848年に設立された国立製作所の改良委員会で製作の改善が唱えられ、製品にいかに芸術性をもたらすかが模索されていたのである(注19)。その方法をめぐっては、アカデミーが芸術の産業に対する― 378 ―― 378 ―

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