鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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④北部九州における神仏習合造像をめぐる研究─平安時代前期を中心に─研 究 者:福岡市美術館 学芸員  宮 田 太 樹はじめに古代の神仏習合造像が、官僧の地方における活動を通して進められたことは近年の研究が明らかにしたとおりで(注1)、そこには在地の神々を護法善神として国家秩序のもとに再編するねらいがあったとされる(注2)。本稿は平安時代前期の北部九州の造像─具体的には浮嶽神社に伝来する3躯の木彫群の造像背景─を考察することで、神仏習合造像の様相を検証することを目的とする。北部九州の造像における観世音寺の役割まず、議論の前提条件として北部九州の造像に官僧がいかに関与したのかを確認しよう。平安時代前期の地方における造像の主たる担い手が講師と呼ばれる地方僧官であったことは既に指摘されるとおりである(注3)。講師とは諸国に置かれ部内の諸寺を監督した官僧のことだが、大宰府管内においては、これら講師をさらに統括する立場として観世音寺講師が設置されていた(注4)。観世音寺講師が、管内の寺院僧侶に強い影響力を持っていたこと、観世音寺における造営事業に深く関わっていたことなどが、資料上確かめられることから、当地の造像を考える際には、この観世音寺講師の果たした役割を検討することが有効となる(注5)。浮嶽神社の木彫群浮嶽神社は、福岡・佐賀の県境をなす脊振山地の西端、浮嶽(標高805m)にある。上宮のある山頂部では、磐座祭祀の遺跡と推定される大岩群〔図1〕も確認されており(注6)、古来信仰の対象となっていたようである。秀麗な山容から「筑紫富士」とも呼ばれた浮嶽が航海のランドマーク〔図2〕として古代の海上交通にまつわる信仰を集めたことは既に指摘があるが(注7)、加えて、大宰府から壱岐・対馬を経て朝鮮半島へと渡る際に利用される古代官道もちょうどこの地域を通っており(注8)、この山が筑前と肥前の「境界」としての性格を備えていたことも見逃せない〔図3〕。木彫群が安置される浮嶽神社の中宮は、山頂から北へ下った中腹に位置するが、既述のとおり、海や山にまつわる信仰が重なり合う場であった。こうした地理的・信仰的な背景が九州でも屈指の古像の成立を導いたと予想される。― 29 ―― 29 ―

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