㊱ 長沢蘆雪の障壁画制作─草堂寺を中心に─研 究 者:和歌山県立博物館 学芸員 袴 田 舞はじめに長沢蘆雪(1754~99)は、江戸時代中期、円山応挙(1733~95)の弟子として活躍した絵師である。生涯に多数の障壁画を手がけ、天明6~7年(1786~87)には紀州の草堂寺(和歌山県白浜町)・無量寺・成就寺(同県串本町)・高山寺(同県田辺市)で質・量ともに充実した作品群を残す。西光寺(島根県松江市)や薬師寺塔頭福寿院(奈良市)、正宗寺(愛知県豊橋市)にも描くほか、蘆雪とともに応挙門下の双璧と謳われた源琦(1747~97)と2人で、寛政2年(1790)の内裏御涼所や、同3年の妙法院御座の間、同7年(1795)の大乗寺客殿2階などを担当した。蘆雪は作品に年紀を記す例が少ない。紀州で制作した障壁画にも年紀がないものの、蘆雪が紀州旅行の最後に立ち寄った高山寺に残る日記『三番日含』天明7年2月項の記述により、蘆雪の滞在時期の下限が明らかになる。さらに、紀州滞在時に制作した作品は数量が非常に多く、現状屛風装になっているものも含め、草堂寺で52面5隻、無量寺で35面、成就寺で45面、そして高山寺で6面と、約150面もの障壁画が現存する。その表現も、応挙風を色濃く残しつつも蘆雪らしい伸びやかな筆遣いが生かされており、紀州で制作された障壁画群は、質・量ともに蘆雪画の展開を考えるうえで重要である。本稿では、蘆雪が障壁画を残した紀州の寺院の中で中心的な役割を果たしたと目される草堂寺に注目する。特に、仏に祈りを捧げる間として最も重要な部屋である仏間に、指頭画という特殊な技法を用いた「焚経栽松図」〔図1〕を取り上げ、その制作背景の考察を試みる。1.草堂寺を中心とする、蘆雪が訪れた寺院のつながりまずは、草堂寺について確認しておきたい。草堂寺は、現在の和歌山県西牟婁郡白浜町富田に位置する、臨済宗東福寺派の寺院である。もとは円光寺といい真言宗であったが、慶安元年(1648)、虎関師錬(1278~1346)を勧請開山、洞外令中(1619~92)を中興開山とする臨済宗寺院として、「草堂寺」の寺名を得て開かれた。草堂寺は貞享3年(1686)、東福寺海蔵院より紀州の虎関派寺院の「派頭」とされ、本山と末寺の間を取り持つ中本山とでもいうべき役割を担った。草堂寺が「派頭」に任ぜ― 387 ―― 387 ―
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