られた際の「草堂寺派頭証文写」(注1)には草堂寺の配下9か寺が記され、その中に無量寺と成就寺も含まれるのが注目される。蘆雪の紀州来遊に触れた唯一の同時代資料である『三番日含』に「串本無量寺和尚同道にて下り、無量寺、西向の成就寺、富田高瀬の草堂寺客殿の画、芦雪書く。」とあることから、蘆雪は無量寺住持に伴われて京都から串本に向かったと考えられる。無量寺と草堂寺の関わりに注目してこのことを考えてみたい。草堂寺で蘆雪を迎えたのは、5世棠陰令召(1723~1800)および6世となる寒渓令遂(1751~1806)である。このとき無量寺の住持は8世愚海文保(?~1803)で、愚海の師の無量寺7世仙峰禅喜(?~1769)は、草堂寺棠陰と兄弟弟子であった(注2)。また、草堂寺寒渓は、住持を退いた後、無量寺愚海の示寂を受けて無量寺に招かれ、草堂寺10世圭巌(?~1878)も草堂寺退居後無量寺に移っている(注3)。このように無量寺と草堂寺は密接なつながりがある。両寺の本末関係を考えれば、愚海は、棠陰の依頼で蘆雪を迎えに行ったとも想像される。さらに、成就寺においても、蘆雪来遊時の住持である3世栴渓令郁(?~1818)は、草堂寺棠陰の弟子かつ草堂寺寒渓の兄弟弟子であって、彼らの紹介で蘆雪が成就寺へ行ったと推測される。こうした条件を考慮すると、蘆雪の紀州における障壁画制作は、草堂寺、それも5世棠陰を中心とするネットワークの中で行われた可能性が高いように思われる。2.蘆雪が紀州で障壁画制作を行った背景なぜ、蘆雪がこれらの寺院に呼ばれることになったのであろうか。その背景については先学の研究の蓄積があるが(注4)、寺院側の事情と交友関係から改めて考えてみたい。当時、蘆雪が訪れた寺院は次のような状況であった。紀南(紀州南部)一帯は、宝永4年(1707)の地震・津波で壊滅的な被害を受けており、成就寺は安永5年(1776)秋に再建(棟札による)、無量寺は天明6年(1786)6月に完成(棟札および『串本町誌』所載の記録による)(注5)、草堂寺は天明6年9月に棟札上掲(棟札による)を果たしている。地震津波から70~80年が経過してのことではあるが、紀南の寺院での障壁画制作は、復興の仕上げの意味があったと想像される。障壁画を描く画家に蘆雪が選ばれたのはなぜか。その理由を明らかにする同時代資料は今のところ見いだせない。しかし、近代以降に刊行された資料では、草堂寺・無量寺の僧と応挙が若き日に交流を持ち、彼らの寺に応挙が揮毫する約束をしたものの事情があって行けなかったため、名代として蘆雪を遣わせたと語られる(注6)。実際に、蘆雪が訪れた紀南の寺院のなかでは草堂寺と無量寺にのみ応挙の障壁画が伝わ― 388 ―― 388 ―
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