る。一方、蘆雪の襖絵が残るものの、応挙との約束の伝承が伝わらない成就寺や高山寺には、やはり応挙の障壁画がない。このため、上記のような近代の伝承も、ある程度実態を伝えていると思われる(注7)。また、交流のあった京都の僧の紹介で、蘆雪が紀州へ赴いた可能性も想定される。ここでは、蘆雪筆「鷹図」および「達磨図」(いずれも個人蔵)への着賛が知られる、東福寺龍眠庵住持を務めた独秀令岱(?~1798)に注目したい。「鷹図」は画風と落款の書体から紀州旅行に近い時期の作と考えられ、着賛時期は検討を要するものの、紀州来遊前にすでに、蘆雪と独秀が交流をもった可能性がある(注8)。独秀は、草堂寺棠陰とも交流があった。棠陰が記した「草堂寺本堂再建棟札」(天明6・1786年、草堂寺蔵)によると(注9)、次のような事績が明らかとなる。棠陰は、寛延元年(1748)、26歳のときに、修行僧の首席で住持の次位である、東福寺首座となった。長崎の易者鶴塞に、42歳で厄災が起こると占われ、それを避けるため、草堂寺の大改築を発願した。棠陰が草堂寺住持となったのは、宝暦2年(1752)、30歳のときである。その後宝暦11年(1761)、39歳のとき、若年より親交のあった独秀により、火災に遭った東福寺海蔵院の再建を任されて上洛。後に棠陰は再建の功を認められ「虎関師錬像」を賜る。棠陰の師である義海令端(?~1763)が没する宝暦13年(1763)、棠陰41歳のとき再び草堂寺に戻り、天明6年(1786)、草堂寺本堂の再建を果たし棟札を掲げる。また、棠陰は、九条家諸大夫信濃小路家の連枝であった独秀に伴われて九条家・一条家を訪れ、草堂寺中興開山の洞外没後に途絶えていた、両家との交渉を再開した。こうした棟札の記述からは、草堂寺と棠陰にとって、独秀が非常に重要な存在だったことがわかる。宮島新一氏によれば、独秀は明和元年(1764)の東福寺での「連環結制」において、化主(物資等を募って寺院の経営維持に資する役職)を勤めている。連環結制は、五山が持ち回りで坐禅の大会を実施し、禅の復興を目指すもので、これが江戸時代中期の京都において禅僧が親しく交流し、壇信徒たる有力町人が禅への関心を深める契機となったとともに、絵師たちにも刺激を与え、画題や表現にまでも影響を与えたと指摘される(注10)。また、根拠は示されないものの、草堂寺16世悦叟令温氏はその手記で、蘆雪と草堂寺寒渓がともに独秀に参禅したと推測し(注11)、楠本慎平氏も、草堂寺棟札の記述や、蘆雪が、当代きっての絵師であった応挙門下の俊英であったことを重視して、独秀が草堂寺と蘆雪の間を取り持った可能性に言及されている(注12)。独秀の存在は、蘆雪と紀州の僧をつなぎ得た人物として、注目すべきであろう。― 389 ―― 389 ―
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