鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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浮嶽神社に伝来する木彫群のうち、その成立が平安時代前期まで遡ると推定されるのは、如来立像、如来坐像、僧形立像の3躯である〔図4~6〕。昭和2年(1927)発行の『糸島郡誌』にはそれぞれ「弥勒」、「伝薬師仏」、「地蔵」と記載されるが、それ以前の資料を欠いており当初の尊名は不詳である。いずれも等身の大きさで、木心をこめたカヤの一材から像の大半を彫出する(立像の2躯は蓮台も含む)。厚みと抑揚に富んだ体躯や峻厳な表情、翻波を交えた衣文などにも平安時代前期彫刻に通有の特徴が認められ、その制作は9世紀前半まで遡ると考えられる。藤原広嗣の怨霊の善神化これらの3躯の木彫像は、二段に折り返した奈良時代風の偏袒右肩〔図7〕を採用している点に特徴があり(注9)、南都に出自を持つ観世音寺講師が造像に関与した可能性が高い。また、本木彫群をめぐっては、造像背景の考察から観世音寺講師の役割を重視する見解もある(注10)。すなわち、承和年間(834~847)に派遣された遣唐使が契機となって、航海安全に対する信仰が高まり、浮嶽神社の木彫像が成立したことが末吉武史氏によって推定されている。観世音寺講師との関わりで注目されるのは、氏も指摘するとおり、肥前国松浦郡(佐賀県唐津市)に所在する鏡神社の神宮寺であった弥勒知識寺の存在である。【資料1】(注11)太政官符応令常住肥前国松浦郡弥勒知識寺僧五人事右得大宰府解、観音寺講師伝燈大法師位光豊牒称、依太政官去天平十七年十月十二日騰勅符、件寺始置僧廿口施入水田廿町、自尒以来年代遙遠緇徒死盡、寺田空存修行跡絶、望請、置度者五人令修治彼寺、即鎮護国家兼救遊霊者、府依牒状謹請官裁者、右大臣宣、宜選心行無変精進不倦、堪住持仏法鎮護国家之僧以令常住、承和二年八月十五日これは、観世音寺講師光豊が、天平17年(745)10月12日に僧20名が置かれ水田20町の施入を受けていた肥前国松浦郡の弥勒知識寺が、年月を経て荒廃したため、新たに度者5名を置き寺の修治をさせることで、国家を鎮護し遊霊を救うことを願い出て許可された、承和2年(835)8月15日付の太政官符である。ここから、弥勒知識寺が国分寺に匹敵する僧数と2倍の水田の施入を受けた本格的な寺院であったことがわかるが、まず注目したいのはこの施入の目的としてあげられる「救遊霊」という記載― 30 ―― 30 ―

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