鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
400/455

3.草堂寺における指頭画「焚経栽松図」の意義ここで、草堂寺障壁画の全体像を確認しておきたい。草堂寺に描かれた応挙と蘆雪の障壁画は、本堂の6室および南書院の2室を飾るものであった。本堂上間一之間のみ応挙が担当し、「雪梅図」、「雪に笹図」、「松月図」の計19面が残る。他の部屋は全て蘆雪が描いたもので、画題は次のようになっている。すなわち、仏間に「焚経栽松図」4面(注13)、室中之間に「虎図」8面と「枯木に鳩図」12面、上間二之間に「虎渓三笑図」8面および障子腰貼付「月下渡雁図」、下間一之間に「竹鶴図」6面と障子腰貼付「蛙図」2面、下間二之間に「牛図」8面および障子腰貼付「群狗図」を描いたのである(注14)。応挙の担当部分を含めてほぼ全てが紙本墨画、部分的に淡彩を用いている(応挙筆「松月図」天袋4面のみ金地墨画)。蘆雪の画は、応挙の影響を窺わせる丁寧な筆致で描かれ、謹直な描写態度が垣間見える。その中で「焚経栽松図」は唯一、明らかに禅宗の主題であり、かつ筆ではなく指や掌、爪を用いて描いた指頭画(指墨画、指画)である点が注目される。「焚経栽松図」は仏間の南北両面に向かい合って配されていた。南面には、右手で鍬を執り、地面に植わった3株の小松を見つめる老僧を横から描く。これは中国禅宗の五祖で、栽松道者の別名を持つ大満弘忍(601~674)を描いたものと考えられている(注15)。僧の足元には、「蘆雪指画」の落款と、「魚」の描き印がある。北面には、髭をたくわえた長身の僧が経典を手に振り返り、煙の立ち上る焚火の中で燃える経典を見やる様子を描く。これは、唐の禅僧である徳山宣鑑(780~865)が、龍潭寺の崇信に参じたが、自得することがあって、たずさえた金剛経疏を法堂の前で焼き捨てたという故事を表したか(注16)、禅宗の根本理念の一つである「不立文字」を表現したと考えられている(注17)。蘆雪が指頭を障壁画で用いた例は他になく、管見の限り、蘆雪の指頭画は本図を入れて5点のみである。残り4点のうち3点は掛幅で、高砂の岸本家に伝わったという「汝陽看麴車図」(注18)、「豊干寒山拾得図」と「拾得図」(注19)である(いずれも個人蔵)。もう1点は、もと衝立であったと考えられ、広島の旧家から伝わったという「牧童吹笛図」(久昌院蔵)(注20)であり、いずれも即興的に制作した席画とみられている。「焚経栽松図」の場合は、寺院でも最も大切な空間である仏間を荘厳するための画であり、即興的に描かれたとは考えにくい。実際に「焚経栽松図」を観察すると、線の強弱や硬軟、墨の濃淡に変化をつけ、時間をかけて丁寧に描かれたように見える。ではなぜ、草堂寺の仏間に、わざわざ指頭画が選ばれたのであろうか。ここで、禅僧と指頭の関わりを示唆する例として、先に蘆雪および棠陰と関わりの― 390 ―― 390 ―

元のページ  ../index.html#400

このブックを見る