鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
401/455

深い僧として挙げた独秀が、明和6年(1769)、棠陰の師である草堂寺4世義海令端(?~1763)の頂相に賛した作例〔図2〕を見てみたい。図は曲彔に座す義海を描いたもので、賛は、棠陰の求めで独秀が記している。賛の全文は以下の通り。前住草堂義海令端禅師真像讃幷序/今茲八月十六日丁前草堂義海禅師七回忌景見/住棠座原以師真像未有讃語求予題一辞夫惟/師空慧和尚之親孫慧老当年重興昌山禅密兼行/盖慕慧日海蔵之二祖大開二門広摂群機也三伝/至師々益研窮玄秘有名矣我柏隠先師従師伝受/密法泻瓶無遺旦以二老好養花草若有得奇品異/種則彼此相贈交情甚厚令対此像如見先師不覚/澘然遂揮禿毫裁野詞云/本覚遠裔 空慧的孫 其性也直/其用也温 𨂻翻禅海 打開密門/指頭雲起 喝下雷奔 耳露一雨/普潤群根 〃〃滋茂 芬馥満園/東籬之菊 南潤之蓀 言採言佩/滌塵雪煩 我師相得 目撃道存/唱禅和密 如箎如塤 法燈双耀/照導迷昏 留此真讃 以遺来昆/〃〃遵奉 永矢不諼/明和六年己丑七月二十四日/慧峰独秀東岱焚香拝書/龍眠庵南軒内容は、明和6年8月16日が義海の7回忌にあたり、棠陰に賛を頼まれて独秀が筆を執ったことや、義海が禅密を兼行し、花草を愛したこと、偉大な僧であった義海への賛辞を後代に伝える誓いなどである。注目したいのは、義海の徳を称える中で「指頭雲起、喝下雷奔」という言葉を用いている点である。指頭すなわち指先が雲を起こすようだと述べており、こうした表現が禅僧、しかも草堂寺の先代住持への賛辞となることがわかる。これをふまえ、「焚経栽松図」に考えをめぐらせるならば、わざわざ仏間の禅宗祖師図に指頭画の技法を用いることが、決して理由のないこととは思われないのである。本尊を安置し、祈りを捧げる間である仏間は、寺院にとって最も重要な空間だと考えられる。その空間を次の改修まで荘厳し続ける障壁画として、席画としての指頭画が求められたとは考えにくい。むしろ、祖師の徳や仏堂の聖性を表現する手段として、積極的に指頭画が用いられたと考えることができるのではないだろうか。蘆雪が禅の思想を解していた可能性については、和高伸二氏などによって言及され(注21)、松﨑幸子氏は、蘆雪が禅林で受容された文学をふまえていた可能性を指摘されている(注22)。「焚経栽松図」が具体的に何に着想を得て描かれたかは今後の検討を要するが、本図の場合も、施主の求めや背景にある禅の思想を理解して提示したも(スラッシュは改行、下線は筆者による)― 391 ―― 391 ―

元のページ  ../index.html#401

このブックを見る