のと考えられる。指頭画による障壁画は、草堂寺に先行して、池大雅(1723~76)が黄檗山萬福寺の東方丈開山寿位間に指頭と紙縒を用いて描いた「五百羅漢図」がある。これは大雅にとって、指頭画による唯一の障壁画であることが知られている。大雅には指頭画の作例が多く、20代の頃を中心に、造形的興味とともに経済的事情もあり、衆目を驚かせるパフォーマンスとして多数指頭画を制作したとされる(注23)。しかし、大雅が40代の頃には、萬福寺「五百羅漢図」以外には指頭画を行っていない。これは、筆のように墨を含むことのできない指による制作の不自由さや、画家として名声を得て指頭画によるパフォーマンスをする必要性が少なくなったためだと指摘されているが、そうした状況にもかかわらず、大雅はあえて大画面の障壁画に指頭画の技法を選択している。武田光一氏はその背景について次のように推測されている。大雅にとって指墨は萬福寺と縁のあることで、寺側が指墨で描くことを許したということは、萬福寺にとって指墨が決して抵抗のあるものではなかったことを証している。もしそうであれば黄檗僧は、指墨のもつ規格にとらわれない「逸」の要素に、禅の立場から理解を示していたのではないか(注24)。萬福寺での大雅の制作は、明和9年(1772)の隠元禅師百回忌を迎えるにあたって行われた方丈改修に際したものとみられており(注25)、寺にとっても大雅にとっても大切な制作であったことは想像に難くない。こうした先例の存在からも、草堂寺の仏間における指頭画による祖師図は、空間の聖性を担保する手段として積極的な意義があったものと思われる。おわりに以上本稿では、紀州の臨済宗寺院で制作された障壁画のうち、それらの寺院の中で中心的な役割を担っていたと思われる草堂寺に注目して、仏間の障壁画であった「焚経栽松図」を取り上げ、指頭画による制作の意義について考察を試みた。蘆雪が交流した禅僧が指頭画をどのように捉えていたかを考えるため、草堂寺での制作に関して最も身近な資料として、草堂寺に伝わる、ときの住職棠陰の師、義海の頂相の画賛に注目した。また、禅宗寺院において指頭画の技法を用いた障壁画の先例として、池大雅による萬福寺障壁画「五百羅漢図」を参照し、草堂寺の場合も、指頭画は単なるパフォーマンスではなく施主の理解を得ていたはずであり、さらに積極的な意味が付加されていたと推測した。今回は上記の事項に限って考察したが、近世禅林における指頭画の意義や、草堂寺の障壁画群全体についての、画題選択、配置、制作背景などについての考察は別稿を― 392 ―― 392 ―
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