鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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㊲ 岸田劉生の静物画と同時代陶芸の関係に関する一考察研 究 者:目黒区美術館 学芸員  吉 田 暁 子岸田劉生が1916年4月に制作した《壺》〔図1〕という静物画には、ひとつの壺が描かれる。後に彼が数多く制作した、複数の事物が配置される静物画とは異なり、この作品ではモティーフである壺そのものが主題となっているといえる。従来、この《壺》にはバーナード・リーチの制作した陶磁器が描かれているとされてきた。筆者はこの通説に対して抱いた疑問を出発点とし、岸田が描いた壺とリーチが制作した壺の比較を通じて、それぞれの芸術観がどのように表現されているのかを分析しつつ、描かれた「壺」のルーツを探った。《壺》は、それまで静物画という画題に魅力を感じなかった岸田が初めて手ごたえをつかんだ作品であり、岸田にとって静物画という画題の重要性に気づく契機となった作品である(注1)。裏面には完成時の感懐が「実在の神秘を探り、こゝに表(は)さうとしたが、自分の感じたものよりずつと力弱きものとなつた驚く可きは実在の力(である)自分は猶これを探り進めたい」(注2)とつづられ、「実在の神秘」という彼の芸術観において重要な言葉が記されている。同じ器物 (以下、この描かれた器物を「壺」と表記する)は、約半年後の11月には同じ向きで取っ手の欠けた状態で《壺の上に林檎が載って在る》〔図2〕として、1917年2月には異なる向きで再び《壺》として描かれた。1916年以降岸田の主要な画題となった静物画の中で、同じ器物が複数回登場することは珍しくないが、単独で描かれるのはこの「壺」のみであり、特別な意識の集中がうかがえる。「壺」のモデルをバーナード・リーチが作った器物とした最初の文献は、筆者の知る限りでは椿貞雄によるものである。椿は岸田の没後25年を記念した回顧展目録の中で「間もなく肺病だと言われて駒沢新町に移転、病もだんだんよくなったが野外写生は無理なので、手近にあるリーチの壺や、三ツの林檎を写生、始めて静物画が生れる」とした(注3)。次に武者小路実篤が、岸田の遺族も全面的に制作にかかわった大型の画集である『劉生画集』の中で「彼は病気で風景がかけないかわりに静物を始めた。リーチの壺の上に林檎をのせた画〔図二一〕はこの十一月三日にかいている。」とした(注4)。岸田と最も親しかった二人による証言が岸田の画業を記念する媒体に発表されたことにより、「壺」がリーチ作の器物を描いたものとする説は広く受け入れられたと考えられる(注5)。しかしながら、筆者は「壺」のモデルをリーチ作と断定するのは難しいと考えてい― 396 ―― 396 ―

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