鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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る。その理由は、リーチ作の器物を描いた岸田のそれ以降の作品と異なり、「壺」のモデルとなった器物が特定されたり、器物の作者に岸田が言及したりしていないこと、それから本報告書において述べるように、当時リーチが制作していた陶磁器として現在知られるものに、「壺」と似た作例が見当たらないことである。岸田がリーチ作の陶磁器を描いたことが知られる他の作品には、①《静物(土瓶とシュスの布と林檎)》(1917年7月20日、個人蔵)の土瓶、②《静物(湯呑と茶碗と林檎三つ)》(1917年8月31日、大阪新美術館建設準備室蔵)の湯呑と茶碗(口の広がった茶碗は、他の作品にも繰り返し描かれる)、③《静物(白き花瓶と台皿と林檎四個)》(1918年4月12日、福島県立美術館蔵)の花瓶などがあるが、これらの内②の茶碗のモデルと考えられるリーチの器物は同定されており(注6)、①と③については岸田自身がリーチ作の器物を描いたと明言している(注7)。「壺」の場合はこれらの例と異なり、岸田は「雨が降ったかして写生に出られなく、不図小さいものでもやり度い気が動いて描き出したのがこの壺だ」(注8)と述べるのみで、作者や入手先には言及しない(《壺》を描くことによって静物画に目覚めたという記念碑的な位置づけを強調する上で、岸田があえて作者に言及しなかった可能性はある)。加えて、先述の椿による記述には記憶違いと思われる個所があり(「始めて静物画が生まれ」たときの作品として「林檎三個」が挙げられるが、《林檎三個》は1917年の作品であり、「林檎二個」が正しい)、40年近く前を振り返った文章であることに留意して参照する必要があると考える。ここでリーチの側に目を転じ、来日以降の彼の陶磁器とのかかわりを振り返るなら(注9)、1911年の初来日以降、富本憲吉とともに体験した楽焼に魅せられたリーチは、第五代尾形乾山である浦野繁吉に弟子入りし、また一時期は宮川香山の工房にも通って陶磁器制作を学び、複数の展覧会に出品している。岸田との出会いは、岸田の経済状況を心配する白樺派メンバーの仲介により陶磁器の絵付けを頼んだことをきっかけとし、1911年から1912年初頭頃に始まったとされる。彼らは語学的なハンディを抱えつつも芸術観を語り合い、岸田はリーチからエッチングを教わり、互いの肖像画を描くなど友情を深めた。1917年以降の岸田の静物画に、確実にリーチの作った陶磁器が描かれていることは先述のとおりであり、リーチが1920年にイギリスに帰国した後も書簡のやり取りを通じて親交は続く。しかし1916年4月に完成した《壺》のモデルを考える上で、1914年から1916年にかけてリーチが陶磁器制作から離れた事実は重要である。日本での活動に行き詰まりを覚えたリーチは、1914年末には思想家のアルフレッド・ウェストハープを追って中国にわたり、1915年に一度日本に戻ったのち1916年の暮れまで中国に滞在した。彼はこの間陶磁器を制作しなかったとしており、《壺》― 397 ―― 397 ―

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