である。既に先学も指摘するように(注12)遊霊とは、奈良時代に九州で叛乱を起こした後、弥勒知識寺の所在する松浦の地で非業の死を遂げた(注13)藤原広嗣を指すとみてよく、そもそもの寺院建立も広嗣の霊を慰撫するためになされたものであった(注14)。奈良時代、藤原広嗣が怨霊として朝野に畏れられていたことは、広嗣の政敵であった玄昉が亡くなった際の、「世相伝云、為藤原広嗣霊所害」(注15)という記述からも確かめられ、後の御霊信仰に連なる存在として早くから注目されてきた(注16)。一方、『今昔物語集』巻11の「玄昉僧正、亘唐僧法相語第六」によれば、広嗣の悪霊を鎮めるため、天皇が広嗣の旧師にあたる吉備真備に命じて、慰撫させたところ、「霊、神ト成テ」鏡明神として祀られるようになったという(注17)。また、『扶桑略記』においても玄昉の命を奪った広嗣の霊について「広継(ママ)霊者、今松浦明神也」(注18)とあり、怨霊であった広嗣の霊がある時期から善神となっていたことがわかる。このような怨霊の神格化は、菅原道真の霊を嚆矢とみなすのが一般的ではあるが(注19)、広嗣の霊にその萌芽を認める余地がある。というのも、既に指摘されるとおり(注20)、承和の遣唐使の一員であった円仁が渡海の前後に経典転読を行った九州在地の神々の中に、「松浦少弐霊」すなわち藤原広嗣の霊が含まれているからである(注21)。円仁が経典転読を行ったのは、竈門大神、住吉大神、香椎明神、筑前明神、香春明神、八幡大菩薩と、いずれも護国神もしくは航海の守護神として尊崇を集めた神々であり(注22)、これらに名を連ねた広嗣の霊にもはや怨霊としての性格はうかがえない。皿井舞氏は、神護寺薬師如来立像および神願寺の成立過程を考察する中で、苦悩からの解放が怨霊と神、双方に求められていたこと、「仏力をもって神威を増す」という神仏習合の論理にもとづき神のための造寺造仏がなされたことを指摘しているが(注23)、氏の見解は広嗣の霊にも敷衍できるだろう。すなわち、広嗣の霊も仏力によって救済され神威を増した結果、他の護国の神々とも同格視されるに至ったと考えられる(注24)。したがって、浮嶽神社の木彫群は、藤原広嗣の善神化に象徴される神仏習合思想の高まりをうけて成立したと推定され、具体的な契機としては、先行研究でも指摘されるとおり、承和年間の遣唐使派遣を想定するのも一案であろう。また、【資料1】で確認したとおり、広嗣の怨霊慰撫を目的とした弥勒知識寺の復興は観世音寺講師が主導したものであった。加えて、帰国後の円仁が九州在地の神々に経典転読を行った際にもこの観世音寺講師の支援があったようである(注25)。後述するが、9世紀前半は観世音寺講師が九州全域へと影響力を拡大していく時期にあたっており、広嗣の霊― 31 ―― 31 ―
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