注⑴岸田劉生「思ひ出及今度の展覧会に際して」『白樺』十周年記念号(1919年4月)、「自分の踏んで来た道(1919年4月個人展覧会に際して)」として『劉生画集及芸術観』(聚英閣、1920年、以下『画集及芸術観』と表記)収録(原稿には一部改変あり、『岸田劉生全集』第2巻、1979年〈以下『全集』と表記〉収録)。「壺」が、「写実」と「装飾」という岸田の芸術観の二柱をあわせもつ図像であるとしたところで、「壺」とモデルであった器物との関係は、依然悩ましい問題として残る。「壺」が岸田の思弁的内容にあてはまるからといって、モデルとなった器物の存在まで疑うつもりはない。しかし、あえて想像の領域に入るならば、「壺」がモデルとなった器物の再現から離れて理想化された可能性がないとはいえない。《壺》の1年前に描かれた《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年、東京国立近代美術館蔵)が見せる遠近表現の歪みや、地面に空が切れ込む不可思議な描写が示すように、この時期の岸田は既に、自らの美的世界を表現するために事物を変形して描く経験を積んでいた。また《壺》の数か月後に描かれた《古屋君の肖像》(1916年9月10日、東京国立近代美術館)のような肖像画にすら、岸田が病床でデューラーやファン・エイクといった画家たちの作品の複製図版を眺めては描く身振りを繰り返し、体で覚えていた型が生かされていると論じられている(注19)。「壺」に見られる、当時のリーチが作ったにしては無駄がなさすぎるような、むしろリーチが学んだイギリスやオランダの民具に近い形状と、勢いある線描とが、どこまでモデルを再現し、どこから岸田の創造であったかについて、確かな証拠はないにせよ、従来考えられていたより創造の比重が大きかった可能性を指摘し、報告を終えることとしたい。⑵書き起こしは「表紙の作品 岸田劉生《壺》」(『潮流 下関市立美術館NEWS』69号、2002年)より引用。⑶椿貞雄「劉生の日常生活」『歿後二十五年記念 劉生展』、1955年4月、また「彼の病気は幸快方に向い(誤診だったと言われている)しかし野外写生は無理なので自分の周囲にある壺(リーチ作の彼の愛玩せるもの)や林檎を写生する。」椿貞雄「岸田劉生と僕」『ふさ』第1巻第3号、1955年5月、12-13頁初出。武者小路実篤『劉生画集』平凡社、1962年、232頁。⑷武者小路実篤「岸田劉生」『劉生画集』平凡社、1962年、232頁。⑸最近の文献では安部沙耶香「作家・作品解説 岸田劉生」『リアルのゆくえ』(生活の友社、2017年、253頁)など。リーチ側の文献としては、鈴木禎宏「バーナード・リーチと岸田劉生」(『ジャポニスム研究』18号、1998年、30-41頁)においてもこの見解が踏襲され、この時期のリーチが大型の壺を作ることができたことの傍証(取っ手が取れている点は技術的未熟さの証)とされる。⑹『「白樺」誕生100年 白樺派の愛した美術』(京都文化博物館、宇都宮美術館、財団法人ひろし― 402 ―― 402 ―
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