それ故に薩訶を含めた地獄の罪人がそこに集中して描かれていること、そして人道や地獄の罪人といった現世の者にとって身近な存在をやまと絵風に、冥界の者たちを漢画風に描くことで変化がつけられており、当時の日本の人々の六道に対する心象風景が画風に反映されていること、更にこの絵の制作時までに日本において各説話を取り上げ、十王、六道と組みわせることが行われた可能性があること、など諸々の推察が導き出された。他に、同時に陳列されていた「九相図」は中国に作例がなく、日中の死生観の相違を知る上で、重要な作品であるため、中国側からも研究する価値があるとして、氏は中国仏教美術史の新たな課題も示した。続いて、②の研究会での口頭発表についてである。当研究会は、前述の通り、2016年の張氏のシンポジウムでの発表に端を発し、それに日本人研究者が呼応した形で開催された。ただし、劉薩訶に限らず、広く「神異僧(不可思議な行状を示した僧)」をテーマとして、参加者を募った。その結果、発表者は、日中の研究者計7名(コメンテーター込み)となり、会場には、各分野の研究者、学生など約30名が集った。この研究会によって、神異僧・劉薩訶が実に多様な性格を持ち、中国各地と日本といった各地域と各時代によって取り上げる性質が異なっていたかが明確になり、それを軸として、六道絵、十王図、そして僧の墓誌や塔銘にまで議論が及んだ。これにより多くの作品同士が結びつき、今後の日本・中国の仏教美術史における作品の比較研究に資する成果があげられたと言える。この中で、張氏は、「劉薩訶、凉州瑞像信仰与中古歴史地理」と題して、とりわけ、唐時代における中央政府側の高僧と稽胡族等の異民族の両者による劉薩訶観の相違とその背景について研究発表を行い、最後にその考察結果を基に極楽寺本研究の展望を示した。以下、その概要である。稽胡族は、現在の山西省や陝西省に居住していたが、劉薩訶もこの民族出身であるとの記録が残る。劉薩訶や彼が見出したとされる瑞像は、稽胡族の尊崇を集め、像は度々写され、村の吉凶を占う大きな役割を担っていた。それに対して、中央政府にとっては、軍事や交通の要衝に居を構えており、軍事に長けていた稽胡を政府側に帰順させる、所謂「改心のための道具」として劉薩訶や瑞像が位置づけられていた。瑞像のオリジナルとされる像が、涼州に存在するのも、彼の地の軍事的要衝としての地理環境に因る。また、敦煌では、10世紀の曹氏帰義軍期に、曹氏自らが造営した石窟に涼州瑞像が描かれたが、これも大きな災害が起こり、周囲を6つの異民族に囲まれるという当時の状況を打開するための願いが込められたものである。即ち、受容者の立場によって、涼州瑞像や劉薩訶に期待される性質や機能が異なる。日本は、鎌倉期に中国の寧波などから仏画を受容しており、そうした影響下で― 413 ―
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