いるが、プロポーションがわずかに歪んだ如来立像に比して、威相にあらわされた如来坐像、僧形立像はそれがより顕著であるといえよう。また、後記の2像については、この他にも通例とは異なる表現を見出すことができる。例えば、如来坐像には球状に大きく盛り上がった肉髻があらわされており、先述のとおり、片足を踏み下げていた可能性も指摘されている。いずれも菩薩形や天部形に通有の表現であり、如来形に用いられるのは異例である。また、僧形立像は左衽に打ち合わせた内衣に上衣をまとい、さらに、右肩を別の布で覆うという一部の僧形神像にのみみられる特異な着衣形式を採用している(注29)。総じて、如来立像よりも如来坐像、僧形立像の方に通例と異なる表現が多く見出されるのであり、それは結果的に作風分析によって得られた①如来立像、②如来坐像、僧形立像の造形の違いとも一致する。こうした通例とは異なる表現が神仏習合に起因するとの先学の指摘を踏まえるならば、①、②の造形の違いも神仏習合の視点から読み解くことができるのではないだろうか。そこで、注目したいのが、如来立像が弥勒として伝来していることである。先述のとおり、これを直ちに当初の尊名とみなすことはできないが、本像の右手を垂下して左手を上げる、いわゆる逆手の印相が、奈良時代の弥勒の作例にしばしば採用されている点は見逃せない。例えば、奈良時代の制作と推定される笠置寺の弥勒磨崖仏は、兵火によって罹災し現在は光背の痕跡を残すのみであるが、笠置曼荼羅図〔図14〕や後世の模刻像、そして、図像集に収録された白描図像によって、逆手の印相であったことが知られる(注30)。したがって、浮嶽神社の如来立像も当初より弥勒として制作された可能性は十分考えてよいだろう。本像の尊名を弥勒とみた時、ただちに想起されるのは浮嶽神社の木彫群成立にも深く関わると推定される弥勒知識寺の存在である。いうまでもなく、弥勒知識寺は弥勒を本尊とする寺院であろうが、この弥勒が逆手の如来形であり、浮嶽神社の如来立像はその姿を継承しているとは考えられないだろうか。上述の推定を認めるとすれば、①如来立像は制作に際して先行作例を強く意識したために、同時代の流行に従った②如来坐像、僧形立像とは造形の違いが生じたという解釈がひとまず可能であろう。弥勒知識寺をはじめ、草創期の神宮寺の本尊に弥勒が多いことは早くに指摘があり(注31)、近年、笠置寺の磨崖仏も磐座信仰と仏の姿の現出という信仰が絡み合って成立したとの見解も示されている(注32)。これを踏まえるならば、浮嶽神社の如来立像には神仏習合の原初的なありようが意識されているといってよいかもしれない。というのも、神仏習合にはいくつかの発展段階があるといい(注33)、第一段階として― 33 ―― 33 ―
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