は仏像と全く変わらない姿のものを神の像とみなす段階が想定されているからである。浮嶽神社の如来立像─あるいは、本像の典拠となった弥勒知識寺の弥勒─もこの第一段階の様相を伝えているのではないだろうか。続く第二段階として、儀軌に則った仏像ではなく、異種の仏像を複合させる段階があったとされるが、浮嶽神社の如来坐像、僧形立像はまさしくこの段階に該当するだろう。もっとも、このような解釈が認められるためには、なお多くの検討を要するが、浮嶽神社の木彫群は上述の神仏習合の発展段階を具体的に跡付けることができる可能性を秘めた重要な作例であることは確かであろう。観世音寺講師の宗教政策浮嶽神社の木彫群が制作された9世紀前半は、かつて怨霊として畏れられた藤原広嗣の霊が、護法善神として八幡神や神功皇后らとともに尊崇をうけるようになった時期である。これは、怨霊が仏力によって苦悩から解放された結果と考えられ、本木彫群はこうした神仏習合思想の高まりを背景に制作されたとみられる。そして、この造像を指揮したのが、当時、北部九州の造寺造仏に大きな影響力を持っていた観世音寺講師であった。観世音寺講師の史料上の初見は弘仁11年(820)(注34)で成立もその頃かと推定されるが、その後、大宰府管内諸国の国分寺僧の任用に提言を行い、仏舎利を管内の国分寺・定額寺に安置するなど、管内寺院への影響力を急速に強めている。広嗣の霊が護法善神へと転じたのも、弥勒知識寺復興をはじめとする観世音寺講師の建策によるところが大きいと推測され、神仏習合思想の高まりにも、この観世音寺講師が重要な役割を果たしたと想像される。特に、北部九州における八幡信仰の隆盛に深く関与していることは注目され、天長年間に八幡神の託宣に基づいて一切経を二部制作し、一部を宇佐弥勒寺に、もう一部を神護寺へと納めた事業を観世音寺講師が主導している(注35)。この写経事業は、奈良時代に僧道鏡が皇位をうかがい八幡神がそれを阻止した、いわゆる宇佐八幡宮神託事件に基づくものであるが(注36)、天皇の即位の正統性を保証する皇祖神としての八幡神の性格が朝廷周辺で注目されたことを契機としていると考えられる。こうした中央における信仰の高まりをにらみながら、観世音寺講師は八幡信仰を、そして、神仏習合思想を推進したのではないだろうか。特に、広嗣の霊が仏力で救済された際には、いち早く仏教に帰依し諸神を率いる存在であった八幡神が大きな役割を果たしたと想像される。すなわち、観世音寺講師の推進した神仏習合は、八幡神や― 34 ―― 34 ―
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