注⑴長坂一郎「平安時代前期における南都諸宗の地方寺院経営と木彫像の制作─元興寺法相宗の場神功皇后といった国家神を軸にしつつ、それ以外の九州在地の神々を序列化する企てであったということもできるだろう。浮嶽神社の木彫群の制作背景にはこのような神仏習合造像のありようが端的に示されているのである。合を例として」『佛教藝術』206号、1993年、p30~p42同『神仏習合像の研究─成立と伝播の背景』中央公論美術出版、2004年⑵稲本泰生「神仏習合の論理と造像─インド・中国から日本へ」『神仏習合─かみとほとけが織りなす信仰と美─』奈良国立博物館、2007年⑶長坂一郎「講師仏師の成立について」『南都仏教』73号、1996年、p44~p59前掲注⑴書⑷岡野浩二「筑紫観世音寺の寺院機構」『日本歴史』486号、1988年、p17~p34⑸拙稿「観世音寺における講師と造像─平安時代前期を中心に─」『佛教藝術』348号、2016年、p45~p65⑹山本義孝「背振山系稜線上で確認された磐座・石躰・修法壇・岩屋等について」岡寺良編『背振山の山岳信仰の研究─背振山系山岳信仰・霊場遺跡現地調査報告書─』九州歴史資料館、2017年、p70~p82⑺末吉武史「九州における古代木彫像の成立」『九州仏─1300年の祈りとかたち─』福岡市博物館、2014年⑻木本雅康「西海道の古代官道」『海路』12号、海鳥社、2015年、p6~p21⑼同様の服制を採用した作例として、東大寺法華堂不空羂索観音立像の宝冠化仏や唐招提寺の講堂に安置されていた伝薬師如来立像などがある(前掲注⑸論文)。⑽前掲注⑺論文⑾『類聚三代格』3、承和2年(835)8月15日付太政官符⑿長洋一「藤原広嗣の怨霊覚書─大宰府文化の側面」『歴史評論』417号、1985年、p26~p43柴田博子「怨霊思想成立の前提」『日本古代の思想と筑紫』櫂歌書房、2009年、p25~p78⒀『続日本紀』天平12年(740)11月1日条⒁前掲注⑿長論文⒂『続日本紀』天平18年(746)6月18日条⒃高取正男「御霊会の成立と初期平安京の住民」読史会編『国史論集:創立五十年記念第1巻』、p459~p476、1959年、のち同『民間信仰史の研究』(法蔵館、1982年)所収⒄同様の説話は、『古今著聞集』や『平家物語』などにも見出され、広嗣の死後、古代から中世にかけて、超人化・神格化を伴いながら伝承されていったとされる。(加美宏「藤原広嗣の乱の記録と説話」『軍記と語り物』5号、1968年、p34~p42)⒅天平18年(746)6月18日条⒆山田雄司『跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史』吉川弘文館、2007年⒇前掲注⑺論文 『入唐求法巡礼行記』承和14年(847)11月28日~12月3日条 筑前明神については、他の史料にその名がみえないが、古来航海の守護神として崇められ、『延― 35 ―― 35 ―
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