鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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じ描法が友松筆「柏に猿図」(サンフランシスコ・アジア美術館蔵)の梔子の葉にも認められるのである〔図6〕。また、東博本のうち八条宮智仁親王(1579~1629)筆「今川了俊教訓」の金泥描の菊の葉にもこれに類する描法がある。葉を仔細に見ると、まず葉先に筆を打ち込み、葉元へ向かって左右にリズミカルに弧を繋いでいることがわかる〔図7〕。これは、友松筆「菊慈童図屛風」(岡山・由加山蓮台寺蔵)の菊の葉に著しく類似している〔図8〕。そして、実に興味深いことに、この描法は醍醐寺三宝院の障壁画にも見出すことができるのである。表書院「柳の間」に描かれた夾竹桃は、すでに顔彩が剥落し、墨描された骨書きが露出している。その露わになった夾竹桃の骨書きに、センチュリー本の鉄線と全く同じ描法が見出せるのだ。そこでは、花弁の先端で筆を縦方向に打ち込み、中央から左右に分けて快活に筆を運ぶ様子が肉眼ではっきりと確認できる(注7)。三宝院障壁画は料紙装飾の手法が駆使された特異な作風で知られ、その筆者問題は桃山障壁画研究上の難問とされるほどである。現在、これらは文禄2年(1593)に豊臣秀吉(1536~98)が造立した興福寺金堂前庭の楽屋を移築したもので、長谷川派の複数の絵師による制作と見る向きが強い。だが、最終的に等伯の関与を主張した山根氏も(注8)、三宝院の「秋草の間」と『美術史』31号に紹介された「秋野図屛風」については、「伝統的な金銀泥下絵を専門とした者が本屛風のような大画面に進出し、ついで金銀泥の代りに墨や淡彩を用いて障屛に描いた、と考えられる注目すべき遺品である」と述べている(注9)。ここから浮上するのは、信尹の料紙装飾に関わった絵師が文禄・慶長期に宮廷人や秀吉の周辺で画事を請け負っていた可能性がある、ということである。三宝院障壁画の筆者は長谷川派が有力であるとはいえ、実際のところ、文禄期の長谷川派が如何なる絵師集団であったのかは不分明であり、この事実に鑑みれば、信尹の料紙装飾と三宝院障壁画との関連性について考察の余地は残されているように思われる。3.近衛信尹の料紙装飾の筆者以上、近衛信尹やその周辺の料紙装飾と海北友松の描法上の類似を確認し、かつ、多くの課題を孕みつつも、信尹の料紙装飾と醍醐寺三宝院障壁画との関連性を予測した。これを踏まえた上で、最後に、信尹の料紙装飾の筆者について、文禄・慶長期の絵師の動向という観点からあらためて考察を加えたい。― 45 ―― 45 ―

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