鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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当該期における宮廷絵師の動向は如何なるものであったのか。この頃、長く宮廷絵所預の地位にあった土佐派は、永禄12年(1569)の土佐光元(1530~69)の戦没によって後継者を失い、宮廷からの撤退を余儀なくされている。その後、承応3年(1654)に土佐光起(1617~91)が宮廷絵所預への復帰を果たすまで、宮廷絵所預の座は長きにわたって不在であったという(注10)。一方、慶長期の宮廷関連の友松の画蹟には、『智仁親王日記』の記事が取り沙汰される慶長7年(1602)成立の「山水図屛風」(東京国立博物館蔵)や、同10年(1605)成立の「浜松図屛風」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)などがあるが、それ以前の友松の関与が予想される画蹟としては以下のものが挙げられるだろう。一つは、友松筆「瀟湘八景図」(諸家分蔵、以下八景図)である。本作には「近衛信尹書状」(群馬県立近代美術館蔵)が付随する(注11)。書状の冒頭には「ゆうせう(友松)御礼の事」とあり、その内容は、信尹が友松の謝礼について発注者へ伝える旨を仲介者に約束したものであるという(注12)。五摂家筆頭近衛家の当主たる信尹が発注者への取り次ぎ役を果たしている上、高名な禅僧がそれぞれの図に著賛しているため、八景図の発注者はかなり高位の人物と推測されている。また、書状の発給時期については、書状に「信尹」と署名があること(注13)、書状が信尹の慶長2~3年(1597~98)頃の書風を示すことなどから、改名前後の慶長3~4年頃が想定できるだろう(注14)。つまり、本作は友松が慶長期において信尹の周辺で活動していたことを証左する作となる。いま一つは、料紙装飾で触れた「調度手本」である。本作は慶長3年に相国寺の西笑承兌(1548~1607)が仲介した作であり、染筆者は後陽成天皇・照高院道澄(1544~1608)・八条宮智仁親王・近衛信尹であることが判明している(注15)。信尹は仲介者である西笑の依頼で後陽成天皇への取り次ぎ役を果たしているが、このことは、先の八景図の発注者を探る上で重要な手掛かりとなろう。しかし、ここで最も注目すべきは、友松と交流のあった連歌師の猪苗代兼如(?~1609)が東博本に深く関与していたことである。兼如は、まさに東博本が制作途次にあった慶長3年、友松とともに石田三成(1560~1600)の九州下向に同行し、帰洛後、作品の回収や表装の手配を行っている。東博本の料紙がどのように調達されたかは不詳だが、そこに友松風の金銀泥下絵が含まれることを踏まえるなら、兼如との交友関係から、友松やその周辺の絵師が東博本の料紙装飾を担うことはあり得ないことではない。これらは、慶長期初頭の宮廷で企画されたと思しき、信尹の関与が確かな作品であ― 46 ―― 46 ―

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