⑾ 近衛信尹の書状については、以下のように翻刻した。 ゆうせう(友松)御礼の事 御きもいりのやうたい 申とゝけ候へく候 過分に 申候へく候 たゝすへまいり申候へとも つとめてはんニをとつれ 申候へく候 うむにはんには人をつかはし 申とゝけ候へく候 かしく⑿ 京都国立博物館特別展図録『海北友松』、2017年参照。⒀ 『近衛家譜』『諸家伝』は近衛信尹の改名を慶長4年(1599)とする。但し、改名の上奏は慶長2年(1597)6月1日である。川崎佐知子氏は『中臣祐範記』慶長3年11月11日条に「前左大臣信尹公」とあることを指摘し、すでにこの頃から信尹の名を使用していた可能性を述べる(川崎佐知子「立命館大学図書館蔵「近衛信尹書状」について」『論究日本文学』104、立命館大学日本文学会、2016年参照)。⒁ 書状に見える「たゝす」を「糺の森」と理解すると、賀茂神社の神事も発給時期を探る有力な手掛かりとなろうか。『三藐院記』慶長3年5月1日条に「晴、賀茂へ見物」とあり、また同6年(1601)5月1日条にも「賀茂へ同道申(中略)足ソロヘ不見帰京」とあることが目を引く。「足ソロヘ」とは賀茂競馬の足汰式である。⒂ 浜野真由美「東京国立博物館所蔵「調度手本」の成立事情─『西笑和尚文案』を手掛かりに挿図出典図1 図3、4 大阪市立美術館特別展図録『光悦の書 慶長・元和・寛永の名筆』、1990年より転載図5 図7 図6、8 京都国立博物館特別展図録『海北友松』、2017年より転載そして宮廷に個人的な人脈を持っていた海北友松と、これにやや遅れて登場する俵屋宗達を挙げている(玉蟲敏子「やまと絵の広がりから尾形流の成立へ」『美術フォーラム21』vol. 29、醍醐書房、2014年参照)。─」『MUSEUM』672、東京国立博物館、2018年参照。伊藤敏子著『光悦色紙貼交屛風』別冊、平凡社、1974年より転載調査時撮影東京国立博物館TNM Image Archives― 48 ―― 48 ―
元のページ ../index.html#58