⑥東アジアのアンフォルメル絵画─吉原治良を中心にして─研 究 者:町立久万美術館 学芸員 中 島 小 巻はじめに吉原治良(1905-72)は、ほぼ独学で絵画の技法を習得し、家業の製油会社を経営しながら、海外の抽象絵画の流れに敏感に呼応した。1929年、藤田嗣治(1886-1968)から他者の影響を強く指摘され、絵画制作におけるオリジナリティの重要性を認識する。その後、前衛作家の発表の場となる「九室会」、「現代美術懇談会」の結成に尽力し、最前線の美術動向を発表する場を設けた。また吉原の戦前の制作からは、絵具のマティエールを強調する技法を施し、アンフォルメル絵画の起端を感じさせるものであった。そして、1954年に「具体美術協会」を発足し、それ以降も数多くの抽象絵画を手がけた。芸術と政治や社会が密接にかかわる20世紀の中国、日本、台湾のなかで李仲生(1912-84)は、いち早く時々のモダニズム絵画の動向に即応した画家であった。台湾美術史においては、モダニズム絵画の啓蒙に尽力した一人として功績が称えられている。1933年、李仲生は日本に留学し、その翌年の二科展に《コンポジション》が入選した。日本画壇でも華々しい足跡をたどることができる。50年代後半からは無形象(アンフォルメル)絵画を彷彿させる抽象絵画に取り組み、最晩年までその制作を続けた。吉原と李仲生の制作理念の発露は、ほぼ同時期に得られた藤田からの「人の真似をしない」というアドバイスによることが大きい。また偶然にも両者は、同年に二科展の初出展を果たしている。よって、共に入選した二科展を基軸に論を展開することで、アンフォルメル様式にいたる土壌の一端が垣間見えると考えている。東アジア近現代美術史研究は、欧米(または日本)からの伝播の諸相や影響関係の分析に特化するあまり、自立的に作品を論証した報告が少ない。吉原をリーダーとして設立された「具体」は、戦後から90年代にかけて欧米美術至上主義的なイデオロギーにより、誤った認識や低評価が目立った。それに伴い、東アジア各国の画壇を席巻したアンフォルメル絵画に関する言及は、作品研究において流行画風の後追いや、アンフォルメル様式と書を関連付ける結論に終始することがある。従って本論文では、吉原と李仲生それぞれの抽象にいたる変遷を前史の絵画表現に注視しながら、両者におけるアンフォルメル様式の独自性と共時的展開を明らかにしたい(注1)。― 52 ―― 52 ―
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