(1)藤田嗣治との出会いから二科展出展まで1.吉原治良:アンフォルメル絵画にいたる画業吉原治良は1905年、製油会社の次男として大阪市に生まれた。中学時代から独学で油絵をはじめ、長男が若くして急死、家業を継ぐべく、関西学院高等商学部に進学する。1926年、芦屋に転居した吉原は、そこでパリ帰りの上山二郎(1895-1945)と出合い、強烈な影響を受ける。吉原は、上山に直接的に美術指導を受けてはいないものの、モティーフの構成や筆触表現などにおいて、上山作品との共通する画風を見出すことができる。それは、同時に上山が傾倒していた藤田嗣治の作風をも間接的に取り入れたことを意味した。1928年、初の個展では、魚を題材とした絵画ばかりを描き、注目を集める。《芦屋川の見える風景》(1928年制作)〔図1〕では、空と雲の塗り方に注目したい。本作では、雲を描くにあたって青色の絵具を塗り進めることで、雲のモティーフを表出させている。従って雲の部分は、カンヴァスの裸面もしくは白い地塗りが際立っている。こうした地(=背景)を塗り進め、白色のハイライトを狙う効果やモティーフを際立たせる方法は、海や魚の腹などを描く際もよく見られた〔図2〕。1929年に吉原は、パリから17年ぶりに帰国した藤田に自身の絵についての批評を願った。藤田は吉原の作品を見て、「この絵のここはマチス、この箇所はだれそれ、この絵はだれのマネでもない。」と述べた。苛評を受けた吉原であったが、藤田の評価が起点となり、その後これまでにない作品を創ることを念頭に活動する。1934年から藤田の薦めもあり、二科展にほぼ毎年作品を出品する。1930年代の吉原の作品は、「デ・キリコの影響を明らかにうけていた」と回顧するように、形而上絵画的な実風景とは異なる異空間を描いた。吉原のシュルレアリスム絵画については、李仲生の項で詳細に述べたい。1934年、《帆柱》《麦藁帽と仕事着》《錨と貝の花》《風景》《朝顔の女》の5点すべてが入選を果たす。砂浜や山の斜面など、ペインティングナイフで塗り広げたように、絵具の筆触が目立たぬようマティエールを平坦に仕上げている。サインに加え、藤田の傾倒を示す一例である(注2)。この頃を境に、線や曲線を用いて平面的な絵画構成を試行した、抽象絵画へと傾倒していくことになる。1937年に出品した《窓》《夜・卵・雨》《図説》《気象》《隔世》の5点が特待賞を受賞する。《窓》(1938年頃制作)〔図3〕では、各枠内の中であらゆる画面処理を実践している。とくに、画面左上の枠内に絵具のマティエールを際立たせており、戦後美術の動向を匂わせているところがある。《夜・卵・雨》(1937年制作)〔図4〕においても、着彩の順番は不明だが、地(=背景)とモティーフを同色― 53 ―― 53 ―
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