鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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(2)線的抽象からアンフォルメル絵画期の着色にすることで、先の地(=背景)の問題を探究する姿勢が窺える。裕福な商家に生まれた吉原は、当時から日本のみならず海外の貴重な雑誌を手に入れることができ、西欧の最先端の美術動向を把握することができた。例えば、画集『サークル』(J・Lマーチン、ベン・ニコルス、ナウム・ガボ編集、1937年)〔図5〕から、《無題》(1939年頃)〔図6〕への影響が先行研究によって指摘されている(注3)。1938年、二科展における前衛作家の発表の場となる「九室会」の結成に尽力し、最前線の美術動向を発表する場を設けた。しかし1943年には戦局の悪化もあって、二科展及び九室会も中止となる。持病によって徴兵を逃れた吉原は、戦時下においても絵筆を置くことはなかった。戦後、吉原の芸術家たちとの交流は目まぐるしいものであった(注4)。1950年代初頭になると、吉原の線的抽象絵画はアンフォルメル絵画のように、絵具の物質感が誇示されるようになる。それと同時に、地(=背景)の追求も進むようになった。《作品》(1953年制作)〔図7〕が示すように、単に画面上に線を描くのではなく、地(=背景)を塗り重ねることによって、線というモティーフを画面に表出させている(注5)。戦後の吉原の特筆すべき画業として、1954年に結成した「具体美術協会」での活動があげられる。1956年、「世界・今日の美術展」によって、日本に欧米のアンフォルメル絵画が紹介された。翌年、アンフォルメル美学の提唱者ミシェル・タピエ(Michel Tapié)と「具体」の交流が始まる。まさに「具体」は、日本におけるアンフォルメル絵画の担い手となった。ここでは、「具体」という認識を誇張せず、吉原の作品論を基調としたい。1950年代後半から60年代の吉原の作品は、「具体」活動期ということもあり、激しい筆致と厚塗りのマティエールの画風が際立ったアンフォルメル絵画を制作している。ときに、絵具の物質感を保ちつつ、パレットナイフで絵具を塗りつぶし画面を平坦気味に構成する場合や、荒々しい線描の記号風モティーフで画面を覆うこと、また一つの画面で同時にその絵画表現を実践している作品もある。何層にも地(=背景)を塗り重ねることで、厚いマティエールの効果を狙った〔図8〕。また、地(=背景)の重なりを表出させて下層の絵具を誇示させる描法も見られた〔図9〕。下層の絵具は何らのモティーフでないことが多いが、このような描法によって、絵具の物質感はより際立ち堅持される。吉原は晩年、一貫して円を題材とした作品制作を行う。円という題材は、突如表出― 54 ―― 54 ―

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