(1)日本留学から二科展出展までしてきたものではなく、1950年代半ばから吉原の作品に見えるモティーフであった。円の制作過程は、地(=背景)を塗り進めながら円のモティーフを表出させることが多く、禅画の一円相のように一筆で描かれてはいない〔図10〕。吉原作品は、画集や美術雑誌の図版、先達の芸術家が後押しとなって、あらゆる絵画表現の影響を受けていたと言ってもよい。吉原の画業は、転換の連続のように捉えられがちではあるが、その根底には、常に地(=背景)とモティーフの関係性が追及事項としてあり、一貫した制作理念と表現方法があった。とくに1950年代以降、吉原のアンフォルメル絵画は、「具体」結成やタピエとの交流も進み、画業のなかで突出して映し出されるが、先の問題意識を備えた表現方法であった。また、アンフォルメル絵画によく見られた厚塗りのマティエールの表出は、1930年代後半あたりからも確認することができる。つまり吉原にとって、絵具のマティエールの処理にしても根強く追及された事項の一つであった(注6)。2.李仲生:無形象(アンフォルメル)絵画にいたる画業李仲生(1912-84)は1912年、清の広東省に生まれる。父は清の進士で、書や絵画に優れていた。また母も詩文に優れた。このような父母のもとで育った李仲生は、1930年、広川市立美術学校西洋画科に入学し、倪貽徳(1901-70)から写実に基づくデッサンを習う。1931年、従兄の援助により、広川市立美術学校を中退し、上海美術専科学校絵画研究所に通う。また同年、浙江省の西湖へ写生に赴いた際、田坂乾(1905-97)ら日本人洋画家と出会い、日本で美術を学ぶことを決意する。1932年、日本へ渡航し、まず神田の東亜高等予備校日本語専修科に入学し、一年間日本語を学ぶ。その後、1933年から1937年まで、日本大学芸術科西洋画科で、木村荘八(1893-1958)や中村研一(1967-1985)、松原寛らに学び、文学士の学位を得る。同年、「アヴァン・ガルド洋画研究所」夜間部で、藤田嗣治や阿部金剛(1900-68)、東郷青児(1897-1978)らの指導を受けた。日大でのアカデミックな美術教育とは異なり、伝統に固執しない前衛的な絵画も評価されたという。このとき研究所には、斎藤義重(1904-2001)や桂ゆき(1913-91)、金煥基(1913-74)らがおり、李仲生と芸術について語り合ったことが窺える。ここでの藤田のオリジナリティを最重要視する教えは、その後の李仲生の画業において、革新的な表現を目指した彼の画業に、多大な影響を及ぼしたと考えられる。― 55 ―― 55 ―
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