鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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片切彫が散見される〔図7、8〕。しかし、このように類型化されたモチーフ以外での応用例は少なく、どうやら特定のモチーフの表現技法としての理解にとどまっていたようだ。あるいは、肉合彫との折衷的な方法として運用されていた作品もある〔図9〕。これらはあくまで類型表現としての理解であり、光興作品の魅力である線と面が往還するかのような妙趣が十分に理解されることはなかった。そんな光興の片切彫表現を結果的に継承したのが、加納夏雄(1828-98)であった。夏雄は伝統的な片切彫が「一定の形式に拘泥」したために「図様扁平」だと嘆き、「絵画的豊美浮動の趣味」を得られるよう改善が必要だ、と説いた。その結果生み出したのが「外鏨」に対する「内鏨」、即ち内片切の手法だった。この技法は夏雄の妙技として明治の彫金界で注目された(注9)が、これはすでに光興が無自覚的に用いていた片切彫表現の延長線上にある彫技だったといえる。大月派の彫金術を学び光興の彫技を高く評価していた夏雄は、当然その彫りの斬新性にも気づいたはずであり、これを自覚的に用いることで自分の表現として完成させたと考えられる。この彫技は、夏雄の門人の塚田秀鏡や香川勝広はもちろん、豊川光長や府川一則ら他系統の明治金工にも広く普及した。長常流の平象嵌で表現した色彩に、内片切の輪郭線を組み合わせた作品〔図10、11、11(部分図)〕は、〔図3、4〕の長常作品のリズミカルな表現と比べ、深遠な余情が感じられる点で、芸術性を重んじた近代の感性に沿うものであった。光興という天才的金工が、表現を広げる工夫のひとつとして効果的に用い始めた片切彫の応用表現は、夏雄によりひとつの技法として自覚され、完成をみた。では夏雄と同時代の名工であり、夏雄の薫陶も受けていた海野勝珉(1844-1915)の片切彫はいかなるものだっただろうか。その絵画的表現が最も如実に表れた作品「拾得図小柄」〔図12〕を例に取ろう(注10)。この作品は、発注者である光村利藻の宴席で即興的に作られた。ただ、パフォーマンス自体は即興的だったが、準備は入念だった。発注者の眼前で彫技を披露するには、象嵌のような込み入った作業は適さない。彫りだけで作品世界を成立させるためには画題と手法の選択が肝であるが、それを勝珉は尾形光琳筆「拾得図」〔図13〕を選ぶことで解決した。勝珉がどのようにこの絵に接触したのかは不明だが、光琳画に描かれた拾得の立ち姿や箒の配置といった構図はもちろん、その筆の表現まで片切彫で再現した。その顕著なものが腰布の没骨表現である。没骨の腰布を鏨で表現するために勝珉は、大胆すぎるほど幅広に鏨を駆使し、その彫痕そのものの「広さ」で淡墨による没骨の意を表した。この彫りを片切彫と呼ぶことをためらうほど彫り幅が広いが、明らかに片側が深くなっていること、全体が片切彫主体のシャープな彫りで構成されていることなどからみて、この腰布の― 68 ―― 68 ―

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