表現は片切彫の発展形として捉えうる。それは、限界までブラッシュアップされて最後に突き抜けたところに生まれた、究極の片切彫表現であった。むすびにかえて─今後の研究のための予察以上、絵画作品の筆意から受けた刺激により、またさまざまな名工の工夫により、片切彫が遂げた変容と発展を時代を追って確認した。片切彫は、発生当初より筆の表現を再現する意識に根ざし発展する。平象嵌等による色表現を縁取る輪郭線としての見立て、幅を広げての面的な活用、鏨の向きの内外による使い分けの自覚、没骨表現のような筆意の再現、といったすべての現象が絵画との関連性により、段階を追って説明出来るものであった。片切彫の発生が絵画的表現の希求を動機としていたと考えれば、ある意味当然の結果ともいえる。技法としての片切彫の展開についてはこのような時系列で捉えることができそうだが、最後に、金工と絵師の伝承から片切彫の発生について言及し結びに代えたい。古来、横谷宗珉が英一蝶(1652-1724)の下絵を用いたことは諸書に語られる(注11)。確かに、横谷一門の作品に『一蝶画譜』の図像と一致する作例が多いことは周知のことだ(注12)が、18世紀の『装剣奇賞』に「探幽法印にたより、或は英一蝶にちなみて下絵をもとめ」と狩野探幽(1602-74)が併記され、加納夏雄も、図様は英一蝶の下絵に依るものが多いものの「獅子は永徳探幽のよし惣て狩野家の絵風なり」(注13)と語る。さらに海野勝珉は「横谷宗珉」と題する文章で重要な知見を残す(注14)。「宗珉の鈒け金ぼりは狩野の画から出て居る。種々の書物に、宗珉は彫刻の下絵を英一蝶に画かせたとある通り、如何にも一蝶を煩はしたには相違ないが宗珉自身も画は画いた、面も巧みであつた。そしてその狙つた所は探幽守信で、一蝶が同じ狩野の安信の門から出た能画家だから、宗珉は好んでその下絵を画かせ、自身も亦それを学んで、深く交際をし遂に絵風鈒金を創意して、一機軸を出すに至つたのである。」つまり、宗珉の作品は、巷間言われる英一蝶の関与も否定しないがむしろ狩野探幽の絵画の影響だという。「絵風」作品が関心事だったようで片切彫という言葉は出てこない。実際図2の作品も、片切彫と毛彫とが混在して作品世界を構成している。あくまで絵画風の刀装具として完成度を上げることが主眼であり、技法はそのための手段であったのだろう。勝珉が語るように一蝶は当初狩野安信に学び、もとより探幽とは近しい作画関係にあった(注15)。ただ、探幽の線が、太さの変化に富み筆数少なくモチーフのニュアンスを伝えるような立体感を持つ一方で、安信は単調で等質な線を用いた表現に特徴― 69 ―― 69 ―
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