注⑴ 桑原羊次郎『日本装剣金工史』(荻原星文館、1941年)に宗珉の主要文献がまとまっており、⑵ 井伊家の『御代々御差料帳』に十代直幸差料である月山定光の脇指の拵として明細が記録されており、この小柄については「小柄銀無垢六歌仙 英昌作」と記されている。(『特別展 井伊家伝来刀剣と刀装の美』彦根城博物館、1988年)⑶ 『加納夏雄先生口述』私家版、年不詳⑷ 但し阪井氏から御教示を受けたのは高彫色絵作品の立体感を増すために地板をわずかに盛り上があり、一蝶もまた探幽より肥痩の少ない明快な線を使うという。その点宗珉の線描で効果的に用いられる少ない鏨使いや肥痩ある線描は、一蝶より探幽の特徴とむしろ近似する。探幽の筆法と宗珉の彫技の近さをふまえれば、一蝶の「図案」と探幽の「表現」を両方取り込んだのが宗珉の刀装具だったと考えるのが理解しやすい。だとすれば、なぜ一蝶との交流だけが語り継がれてきたのか。世代の違いも一因にあろう。ただそれ以上に、当時の刀装具に図案性や構図力を求める時代の志向があったことが大きな要因ではないか。またそこには探幽と一蝶に対する需用者の「評価」の問題もあった。探幽は、清らかな画趣を好むか刺激的な画風を好むかによって、評価が分かれる絵師であった。一方で島流しという悲劇的な経歴、身近なモチーフ、明快な構図の一蝶が、後藤家を離れ自由な作風を目指した宗珉と合作する絵師として共感を得やすい状況であったことは、一蝶の名だけが一人歩きしたことと無関係ではないように思われる。ただそのような江戸時代の評価や伝承がありながら、作り手である夏雄や勝珉にとってのゆるがぬ評価軸は、彫りの技術や表現力にあった。彼らは宗珉の作品に接し、その卓越性を探幽の筆意に似た彫りの「表情」に感じ取った。一蝶との関係だけで語られてきた宗珉の片切彫だが、実際の彫技自体は、確かに勝珉らの指摘通り、探幽の筆意と相関する点の方が多い。となれば今後、片切彫の発生を考える上で狩野探幽の運筆の影響も見据えていく必要があるのかもしれない。付記本稿の執筆にあたり、泉屋博古館・廣川守様、東京藝術大学大学美術館・黒川廣子様、根津美術館の皆様、彦根城博物館・古幡昇子様にはご多用のところ作品調査で大変ご高配を賜りました。また、数多くのみなさまよりご助言ご高配を賜りました。記して感謝申し上げます。これを参照した。― 70 ―― 70 ―
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