⑧ オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂装飾の制作背景─腰壁装飾に見られるピントゥリッキオ工房との関連から─序― 75 ―― 75 ―研 究 者: 九州大学大学院 人文科学府 博士後期課程 北九州市立大学 非常勤講師 森 結ルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli c.1450-1523年)の名を不朽のものにしたオルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂(1499-1504年;以下新礼拝堂)が、大聖堂造営局から画家に委託された、いわば公的な事業であったことは注目されてしかるべきだろう。ルネッタのアンチ・キリストの物語に着目し、サヴォナローラによるフィレンツェでの神聖政治の風刺と解釈するシャステルの論考によって新礼拝堂への関心は高まり、先行研究上特に、「最後の審判」に際し生じる出来事を描いた連作のルネッタの分析を中心に、その図像プログラムに関心が寄せられてきた(注1)。対してオルヴィエートと当時の教皇庁の動向、ローマの人文主義・終末論的文化との関係から本礼拝堂を解きなおしたのがリースであった(注2)。さてオルヴィエート大聖堂は、近郊のボルセーナでのミサの際に血を流した聖体を包んだ聖体布を納めるために建立され、これを納めたコルポラーレ礼拝堂の正面に相対する形で、本礼拝堂が遅れて建立された。故に当初「新礼拝堂」と呼ばれていたのである(注3)。宗教改革前夜、いわば聖体の化体変化を証明する、ローマ教会にとって重要な聖遺物を持つ都市の大聖堂に新礼拝堂は位置していたのだ。リースの視座は正鵠を射ており、本稿もこれに倣い、本礼拝堂をオルヴィエートと教皇庁の関係から解釈したい。中でも言及の少ない、礼拝堂下部の腰壁の様式的分析をその主眼とする。本礼拝堂の腰壁には古代建築様式が騙し絵的に描かれ、さらに当時発掘された皇帝ネロの宮殿ドムス・アウレアから派生した、グロテスク装飾で飾られている(注4)。しかしこの装飾の流行が背景にあったとはいえ、何故礼拝堂という聖域を、過剰に異教的な要素が、多くの部分を占めることができたのだろうか(注5)。本稿は本礼拝堂の腰壁において、シニョレッリと同じウンブリア派のピントゥリッキオによるローマにおける古代風装飾が導入されていることを指摘することで、オルヴィエートと教皇庁の関係のみならず、新礼拝堂の画家工房側、委嘱主側双方に関し、新しい視座を拓こうとするものである。
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