2.ピントゥリッキオによる古代風装飾の導入古代壁画のイリュージョニズムの継承新礼拝堂の腰壁はその図像と同様に、様式自体も特異といえる。例えばヴァティカンのシスティーナ礼拝堂のように、腰壁には垂幕か、あるいは大理石の壁板が描かれるのが一般的であったからだ。では図像的にも様式的にも古代性を示す当該の腰壁は、如何にして構想されたのだろうか。新礼拝堂が着手される約20年前、1480年前後のドムス・アウレアの発掘によって、文献でしか伝わっていなかった古代壁画が、初めて白日の下となった。時同じくしてシスティーナ礼拝堂装飾事業へ参加していた画家を中心に、その内部に描かれた種々混交した文様であるグロテスク装飾が研究され、同時代の装飾事業へ取り入れられた。シニョレッリもそのメンバーの一員であり、新礼拝堂の腰壁へのグロテスク装飾の導入もこの流行を背景にしていると単純に説明されてきた(注8)。より構造的な部分─騙し絵的な古代建築的要素─についてはどうだろうか。サン・ユアンが唯一、新礼拝堂と同主題「最後の審判」を採り、騙し絵的な建築要素を呈すナルド・ディ・チョーネによるストロッツィ礼拝堂(1351-57年、フィレンツェ、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会)の腰壁装飾をその着想元として挙げる。サン・ユアンは新礼拝堂の騙し絵的な様相を、一度古代の絵画伝統と結び付けたが、ドムス・アウレアにそのような要素が見られないことから、14世紀フィレンツェのものを重視するに至ったのである(注9)。しかし直接ドムス・アウレアに範を求める必要は無いだろう。発掘から20年を経る間に、他の画家達もその研究を行っていた。中でも、早くはシュルツが指摘していたように、15世紀後半のローマにおけるピントゥリッキオによる装飾事業においてこそ、古代壁画に倣い、実際の建築空間と壁画空間とを連動させた、イリュージョニスティックな壁画装飾が復興されていた。彼はシスティーナ礼拝堂装飾事業後、十数年もローマに滞在し、教皇庁の要人から多くの装飾事業を受注し、ローマの古代遺物に当時最も近しく、壁画上のイリュージョニズムを発展せしうる唯一の画家であったといえる(注10)。さてそこで筆者は、ピントゥリッキオによるペニテンツィエーリ宮殿(デッラ・ローヴェレ家の邸宅であった)の古代風の壁画装飾〔図2〕と新礼拝堂の腰壁との類似を指摘したい(注11)。実際の建築であるかのような騙し絵的な様相と、中央の区画の四方を、小円形が取り囲む幾何学的形式とに類似が見られる。しかし新礼拝堂はこの騙し絵的・幾何学的様相に倣うのみならず、そこに詩人達の肖像と、ルネッタの― 77 ―― 77 ―
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