鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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の配置も酷似しており、前者は後者のグロテスクの下絵に基づいていると考えられよう。また新礼拝堂の腰壁のフリーズのグロテスク〔図5〕も、ピントゥリッキオによるペルージャの教会の為の《サンタ・マリア・デイ・フォッシ祭壇画》〔図6〕のものとの類似が見受けられる。両者とも渦巻き、蔓草に変わる尾があり、その先端に人物がついている。さらに蔓草に変わる尾の上に鳥がいて、トカゲのようなものと向き合っているのだ。そして先の騙し絵的な腰壁装飾と同様、ペニテンツィエーリ宮殿の装飾モチーフとの一致も認められる。新礼拝堂の《天国に選ばれし人々》と《地獄に堕ちる人々》の真下の、腰壁のメトープ部分に描かれた、子供を抱くネレイデスと、二股の尾を持つトリトン〔図7〕が、ペニテンツィエーリ宮殿の天井装飾の一部〔図8〕と類似しているのである。しかし新礼拝堂の場合、ネレイデスは聖母子のように描かれ、そしてトリトンは悪魔的に描かれており、天国と地獄を描くルネッタの主題との関係の中で、その意匠が新たに創り直されているといえるだろう。以上のように新礼拝堂の腰壁には、ペニテンツィエーリ宮殿や「ボルジアの間」との類似点が認められるが、一連の古代風装飾はしかし、デッラ・ローヴェレ家やボルジア家といったローマの上流階級の居室の壁画に用いられているのであり、シニョレッリ自身がこれらを直接取材したと一足飛びに推測を許すものではない。実際には、複数のピントゥリッキオによる装飾事業の図案が散見され、前述のネレイデスやトリトンのように、これらの図案をシニョレッリは選択的に取り入れてもいることから、多数の図案をまとめた素描帖などを彼が目にしているだろうことが想定される。新礼拝堂装飾事業当時はピントゥリッキオもローマから帰還し、ペルージャを拠点としてウンブリアで活動していた(注15)。この頃彼がオルヴィエートを訪れた確たる記録はないが、次の記録は我々の関心を引く。それは彼が1502年5月31日にオルヴィエートのサン・ロレンツォ地区の家屋を、姑の再婚相手に彼女の嫁資金として譲渡したというものである(注16)。この家屋は、1494年と1496年にオルヴィエート大聖堂の後陣の修復に、ピントゥリッキオもまた従事していた頃に購入されたものかもしれないが(注17)、いずれにしても、彼はオルヴィエートに家を持ち、新礼拝堂装飾事業も只中の1502年前後、譲渡の前に家の整理の為にそこに滞在し、シニョレッリと交流を持ちえた可能性は十分にあるといえるだろう。以上、教皇庁の要人が好んで居室を飾っていた古代風装飾が、新礼拝堂に導入されていることを確認してきたが、序論で述べたオルヴィエートと教皇庁の関係を考慮すれば、これは大聖堂造営局側の明確な意図によるものと考えられるだろう。そこで次― 79 ―― 79 ―

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