まさに1499年という世紀末にグッビオで起こった異常気象について、アルベリが自らの管財人(そして大聖堂参事会会員でもあった)セル・アンドレアに知らせた書簡を、書記官シルヴェストロが書き留めたものであった。イタリア戦争でフランスと敵対する中、オルヴィエートも例外なく終末的気分に晒されていた。大聖堂造営局がシニョレッリに画題を与えて《世界の終わり》が描かれたことをも考慮すると、やはり新礼拝堂には同時代的な問題が同期させられていたと考えられよう。そしてその終末的予兆を敏感に察知していたのが、アルベリであったことが分かるのである。アルベリとピッコローミニマクレランはしかしながら、文献記録上アルベリが新礼拝堂の助言者であった確たる手掛かりはないと述べ、この見解に否定的である(注21)。しかし筆者は、マクレランが新たに行った新礼拝堂装飾事業に関する文献調査結果にこそ、アルベリとシニョレッリを繋ぐ手掛かりがあると見做す。注目したいのは、大聖堂造営局長による、シニョレッリが滞在する住居のための、家主への賃貸料の支払いを書き留めた、次の記録である。これは1499年3月から1501年3月までの記録であり、翌月以降のものは欠落している。セル・アンドレア・デッラ・ミトッチャは、画家に提供するためのアントニオ様の邸宅の数部屋の賃貸料として、■日から月ごとに1ドゥカートを受け取らねばならない。セル・アンドレアはアントニオ様の御前で、それら賃貸料をこの私、大聖堂造営局長のプラチトから受け取った(注22)。セル・アンドレア・デッラ・ミトッチャは、前述のアルベリの書簡を受け取った、管財人の名と一致する。従ってこの記録のアントニオ様(misser Antonio)とは、必然的にアルベリを指し、シニョレッリは新礼拝堂制作当初、アルベリの邸宅(palazzo)の数部屋を間借りし、オルヴィエートに滞在していたことが分かるのである。アルベリ自身と、彼がオルヴィエート大聖堂と教皇宮殿の間に作らせた私設図書館に関する文献調査が、1996年に行われた。しかしながらこの時調査された文献記録と、新礼拝堂の制作背景とを結びつける研究はいまだ見受けられない。その調査では、アルベリ図書館と、彼の邸宅の管理者の名が、セル・アンドレア・デッラ・ミトッチャであったことが明かされ、アルベリはピッコローミニの秘書として恒常的にはシエナにいたが、図書館の装飾と整理のために、暫時的にオルヴィエートの邸宅に滞在して― 81 ―― 81 ―
元のページ ../index.html#91