鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
92/455

結いたことが明かされた(注23)。さてこのアルベリ図書館は、シエナ大聖堂に付属する、主人たるピッコローミニ図書館に倣ったものであり、シニョレッリによる新礼拝堂の天井装飾の下絵が一部用いられていることから、1501-1503年に装飾されたとみなされる。図書館内部は古今東西の学者の肖像で飾られ、新礼拝堂の腰壁の詩人の肖像群との接点を考えさせる〔図9〕。またピッコローミニ家の紋章やピッコローミニの伯父であった教皇ピウス2世の肖像〔図10〕が描かれ、アルベリ自身、オルヴィエートにおいてピッコローミニとの繋がりを喧伝していた(注24)。この図書館の装飾事業が完了された頃、1503年にピッコローミニはピウス3世として教皇に就任し、彼はアルベリを教皇代理人及び、ネピ・ストリの枢機卿に任命する。故にアルベリとピッコローミニの結びつきが、オルヴィエートを教皇庁、あるいは教皇本人により近しくしていたといえる(注25)。したがって筆者はアルベリを通して教皇庁、あるいはピッコローミニへ向けた新礼拝堂の装飾プログラムが構想されたと考えたい。ピッコローミニ図書館がピントゥリッキオに委託されたことを考えると、本稿で考察してきた新礼拝堂におけるシニョレッリとピントゥリッキオの連携は、ピッコローミニの古代趣味をアルベリがオルヴィエートで再現するために、明確に意図されたものと見做されるだろう。オルヴィエートは13世紀から幾人もの教皇の滞在を迎え、アレクサンデル6世やユリウス2世も聖体布を拝観する為に訪問した都市であり、宗教改革前夜の聖体論の高まりの中、ローマ教会にとって、聖体から流れた血が付着したオルヴィエートの聖体布は、聖体の実体変化を証明するものであった(注26)。件の聖体布を納めたコルポラーレ礼拝堂と新礼拝堂は相対していることを考慮すると、やはり新礼拝堂は、オルヴィエートから教皇庁に向けての意を発する場にふさわしかったといえよう。当時の教皇庁の政策に対する都市の意向が最も反映されていただろうルネッタの解釈については次なる課題として、本稿では新礼拝堂の中でも腰壁装飾こそ、教皇庁の要人が好んだピントゥリッキオによる古代風装飾を導入し、アルベリをして、ピッコローミニを中核とした教皇庁への追従の意を、視覚的に顕示していたと結論付けたい。新礼拝堂装飾事業は実に、アルベリの古典と聖書に対する洞察、ピントゥリッキオによる古代遺物に対する知見、それらのシニョレッリによる統合と再構築が巧妙に作用し、像を結んでいたのである。― 82 ―― 82 ―

元のページ  ../index.html#92

このブックを見る