鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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いる。これらの資料に加えて、朝鮮風物美術館建設を念頭に描いた350点あまりの風俗画が残っている。これらの資料は、加藤に子供がいなかったため甥の元記者、小栗一成が保管していたもので、小栗が1988年徳島県阿南市に寄贈して以降は阿南市役所が保管・管理している。今回、阿南市役所の協力を得て収集した資料をもとに、戦前の朝鮮での活動記録と戦後日本で発表した記事を加え、彼の生涯を復元する一方、戦後日本に戻った日本人画家がどのような意識を持って活動を続けたかを考察してみる。1.徳島から朝鮮へ加藤松林人の本名は加藤倹吉であり、号は松林人、松林である(注6)。1898年9月16日、徳島県那賀郡内原町(現、阿南市)で加藤安三の長男として生まれた。富岡中学を経て早稲田大学文学部に入学したが、1917年8月に長野県の山林那八の四女、ナツと結婚し、その年11月に母、妹、二人を連れ、一家をあげて朝鮮京城に移住し、先に京城で仕事をしていた父親を手伝うことになる。加藤の父親は、当時大阪、徳島で汽船会社を起こして失敗し、焦って朝鮮へ移ったという。加藤は朝鮮に移住し、初めの2-3年は、父の手伝いをしていたが、朝鮮美展が開設されてからは、苦労しながらも画家としての道を歩み始めた。1918年8月に長男の良一が生まれるが、生まれてから3カ月も経たない同年11月に死亡した。そして、1923年には母のミツヨが46歳で、1929年には妹の花実が18歳で亡くなった。1932年には父親が55歳で他界するなど、加藤の朝鮮生活が平坦な道のりではなかったと推測される。約30年間にわたる朝鮮生活の初期15-16年間は、京城のあちこちを転々としたが、父親を亡くした1932年頃から西四軒町(現、ソウル市中区奨忠洞)に住むようになってようやく腰を落ち着けた。朝鮮美展で活躍し始めた頃からは家で画室を開き日本画を教えながら(注7)ほぼ毎年のように個展を開いた。朝鮮と内地の官設美術展覧会で何回も作品が売られていることから、専ら画家活動だけで生計を立てていたと見られる。例外的には、戦争中の1942年3月に、農業を試みてもいる。「戦争が永びくにつれ、筆なめてばかりもと考へ、忠清南道論山郡に於いて十一万餘平の山畑を手に入れ、午前は筆を採り、午後は鍬を持つ」という農業実践美術道場を計画したが、その工事が完成間近になって終戦を迎えたため、事業を放棄して日本に引揚げた。ところで、文学部に入った加藤はなぜ美術家の道を選んだのだろうか。加藤が本格的に絵を描こうとしたのは朝鮮に渡ってからであるが、自らの記録によると、それ以前から興味を持っていたようである。中学で美術を教えた東京美校出身の大束昌可― 90 ―― 90 ―

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