(1878-1945)に可愛がられ、多く影響を受けたという。そして、早稲田大学文学部予科在学中は、太平洋洋画研究所に一年近く通い、デッサン、油彩の初歩を学んだ。美術学校も出てない加藤が確かなデッサン力を持っていたことや初期作品の静物に立体感を巧みに表現しえているのはこのときの研鑽のたまものだろう。そして、朝鮮に移住すると、京城で日韓印刷会社の顧問として働きながら画室を運営していた清水東雲(1868-1929)の門下で日本画を学び始めることになる。当時を回想して加藤は、「画室の表札を見て、いきなり飛び込み、日本画というものをやって見たいという当突な私の希望を面倒がりもせず、それでは、まづこんなものでも稽古してみて御覧、といって墨絵の蘭の手本を描いて渡してくれた」と語っている(注8)。加藤の日本画の唯一の師であった清水東雲は、京都出身で清水東陽と森寛斎、岸竹堂の門下で四条派を学び、人物画を得意とした(注9)。清水は朝鮮人画家とも交わり、内地の日本人画家との交流も活発で「朝鮮通」としての役割を果たした人物である。日本から審査委員が来る時には案内を担当し、丹青同好会、虹原社、朝鮮美術協会、画友茶話会、朝鮮東洋画家協会などにも参加し朝鮮人画家との交遊もした弟子の加藤の活動にも、清水の足跡と類似するところが多く見受けられる。加藤が清水東雲の画室に通い始めたのが1920年3月であるが、2年後に始まった朝鮮美展は加藤にとって絶好の発表の機会となった。加藤の本格的な画業活動である朝鮮美展については次節で詳しく論じよう。2.加藤松林人においての朝鮮美展1922年「朝鮮で美術の発達を促進し、文化伸長に貢献のため」(注10)朝鮮総督府の主催で開かれた朝鮮美展は、「芸術上の日鮮融化を図る」という文化政治の一環として始まった。加藤は、朝鮮美展について「色んな意味から適切な装置だった」と言及しながら「美術家、画家という職業が次第に社会に認められるようになった」ことをその理由として挙げている。加藤は第1回から最終回まで出品した数少ない作家の一人であるが、出品作をまとめると〔表1〕のようになる。表をみると、入選から三等賞、特選、推薦作家を経て参与作家にいたるまで徐々に地位を築いてきたことが分かる。第2回の〈砂丘〉と第4回の〈春の室内〉は2点ともに3等賞を受賞し、宮内省の買い入れとなった作品である〔図1〕。こうした結果は、加藤に「本気で、画一本でやる気になる」切っ掛けとなった。2回から4回まで風景画と朝鮮婦人画を各々一点ずつ出品していた加藤は、5回からは専ら風景画だけを描くようになる。朝鮮風景や風物を主に描いた加藤画風の出発点と言える。人物画― 91 ―― 91 ―
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