鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
104/643

が得意であった師に対して、他の道を選んだのは様々な理由があるだろうが、『回想の朝鮮画壇』では、モデルを使った写生の苦労が詳しく書かれており(注11)、限られた時間内に完成される人物画よりは全国を回りながら自由に風景を写生する方が加藤には向いていたのだろう。こうした加藤の画風は、「日本からきた朝鮮美展の審査委員や旅行者らが、妓生や頭に物をのせて運ぶ女性、あるいは有名な観光地や日本にはない風俗へ好奇の目をむけた異国趣味的な作品を描くこととは異なり、朝鮮での生活に根をおろすことでしか得られない視点や価値観を感じさせる」(注12)と評価されている。この時期から確立していく加藤の画風は、背景が省略されることが少なく、すべてを見せる画面構成が多い〔図2〕。在朝鮮美術家の同僚であり、朝鮮風俗を扱っていた松田正雄(1899-1941)は、当時流行していたテーマだけを簡略化する技法を使い、堅山坦は背景を暈して表現したことに対して、加藤は記録のために描いたかのような実景を詳細な描法で描いたものがほとんどである。これは、「朝鮮に寄せる気持ち」が朝鮮風俗を描く時に最も重要であることを指摘し、申潤福(1758-?)と金弘道(1745-1806?)らの作品もよく模写しながら東洋画の伝統を探求し続けた加藤の努力の結果でもある〔図3〕。美人画を描いて何回も朝鮮美展の初期に落選を続けた松田に朝鮮風俗を勧めたのも加藤であるが、「松田は収財の為に朝鮮人の生活を探索することはあっても、その本来の嗜好は全く別な、まことに日本趣味的なところにあったようである」と遺憾に思っていた(注13)。加藤は朝鮮美展での10年間を「成長と悩みの交錯」だったと回想していたが、1937年、16回展で参与作家になったことは大きな転換点になった。総督が委嘱する「参与」制度は、特選を重ねた重鎮に出品監査と審査補助の権限が与えられたもので、加藤は、東洋画の部で松田、堅山、李象範(1897-1972)、金殷鎬(1892-1979)とともに展覧会の運営に参加することになった。そして、1941年朝鮮美展20周年の記念式で功労賞を受賞した。このように、加藤にとって朝鮮美展は画家生活の始まりでもあり、公式的な画家活動のすべてでもあるので、一層重要な意味を持つ。画風を確立したのも、日本人画家との交流も、ほとんど朝鮮美展を通じて行われた。そうした中で終戦を迎えた加藤は、当時の複雑な心経を「理屈では分かっていても、心の底に、どうしても本当に納得出来ない、嘘のように思ってならないものがあった」と回想している(注14)。― 92 ―― 92 ―

元のページ  ../index.html#104

このブックを見る