鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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3.引揚からの活動終戦になって、日本に帰るべきか、それとも朝鮮にとどまるかについて思い迷った加藤は、朝鮮に残って自分の画室を日本画の陳列館に解放し、そこで絵を教えながら当分やって行こうとも考えていたが(注15)、連合軍の命令で朝鮮から強制引揚になる。1945年暮れに引揚てから最初は阿南市の父親の実家、従兄の家に定着したが、翌年の3月には妹が住む大阪へ移り、同年5月には大阪の戦災住宅から翌年は京都へと落ち着かない日々であった。こうした生活のなか、画壇は既に抽象画が主流となり、加藤は自分はどのような作品を描くかについて根本的な問いを続けていた。そして「芸術、画を描くということは、本来何の為め、誰れの為めにあるのか、芸術家の戦いとは、もともと、自分との闘いである筈ではなかろうか、展覧会とは競技の場ではなく、作家各自の自分との戦いの場を、共感するものに訴へる場であることを忘れていた。帰するところ、それは自分の為めにあるということを忘れていた」(注16)という結論に至っている。即ち、この時期に展覧会への出品を迷っていた加藤は、時代に便乗するのではなく自分なりの道を歩くことを決意したと見られる。一度は画筆を捨てる決心もした加藤が、本来の道に戻ったのは、1948年50才で、『新世界新聞』(注17)に客員入社し、『新世界新聞』の朝鮮語版の『朝鮮新報』に朝鮮風物スケッチと随筆記事を連載し始めたことが大きかった。加藤が戦後にも「戦前の朝鮮」を描き続けたことには『新世界新聞』の社長・柳棌鉉の支援と在日韓国人社会の需要があったからである。朝鮮戦争(1950-53)のころから加藤は、「戦火に多くのものを失った在りし日の朝鮮の面影を描き残さん」と思い、また「朝鮮での仕事の総決算の意味から」多くの作品を描いている。そして、「朝鮮を描いた眠っている作品を集めることができれば、そこにはかつての日本と歩みを共にしていた厳然とした歴史の足跡の中で、日本の美術家たちが如何に朝鮮を見、描き、半島への愛情を表現したかが見られるのでは」(注18)と提案し、日本にある朝鮮関連資料や作品を集めた朝鮮風物美術館を計画していた。こうした計画は、在日韓国人の『新世界新聞』の社長・柳棌鉉や田永福、呉允台、兪錫浚といったキリスト教団体の教育者たちの支援に負うところが多かった。特に、引揚者の援護活動をしていた牧師の田永福(日本名、織田楢次・おだ ならじ、1908-1980)は日本人でありながら韓国に帰化した人で精神的に大きな支えとなった。田、呉、兪の3人は数年にわたり加藤を励まし、「これで、あなたの心にある朝鮮の美を絵にしてくれ」と資金援助を続けた(注19)。美術館は結局実現できなかったが、朝鮮戦争が勃発した1950年から他界する1983年までの間に描かれた350点余りの作品は、― 93 ―― 93 ―

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