鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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現在阿南市に所蔵されている。サイズはほぼ25号(約60×80cm)前後で、記憶を頼りに写真や戦前描いた下絵を参考にして描いた作品で、朝鮮風物美術館での展示を念頭において描かれたため、戦前の作品にはあまり見られない洗濯や凧揚げなどの風俗画も数点見られる〔図4〕。30点位を占めている金剛山の絵をはじめ、韓半島の全国各地が描かれているが、阿南市所蔵作品については別稿で扱うこととし、ここでは省略する。加藤は1952年、日韓親和会が創立すると(注20)、機関紙『親和』刊行に協力する一方、同誌に多年間に渡り記事を掲載している。1958年1月には随筆画集出版の準備をするため、日韓親和会の事務所があった東京の韓国YMCA(神田猿樂町)に部屋を借りて使用し始めた。YMCAには金素雲(1907-1981)も事務所を構えていたため、これ以降の加藤の作品には金素雲の『朝鮮詩集(岩波文庫)』の詩がよく登場し〔図5〕、みずからも「画讃」という形でさまざまな文章を書いた。当時、加藤は金素雲との出会いを「久しく眠っていた私の詩心を目覚めさせてくれた」と回想している。東京の事務室で月の半分近くを過ごした加藤は、同年8月に、還暦記念として戦後投稿した記事を集め、『朝鮮の美しさ』を出版し、池袋の西武百貨店に於いて出版記念会と作品展覧会を開いた〔図6〕。『朝鮮の美しさ』は、季節ごとに朝鮮の自然や文化、名勝、風物などを140点余りの挿絵とともに紹介する構成で、地名が書かれた挿絵が100点に上る。叙述の多くは、地域の特徴や伝説を客観的に説明するものである。これを書いた目的は「専門的ではないが、朝鮮(韓国)に関して興味を持つように、または理解を深めるため」であったとしている。そして、1963年8月には、この『朝鮮の美しさ』が縁となり、日韓国交回復(1965)以前に日本人としては初めての韓国政府の公式招待客として、8月15日の光復節式典に招かれた。韓国訪問は、18年ぶりのことだった。この訪問に先立って1961年には「加藤画伯韓国訪問後援会」が組織され「韓国において充分活動行動されることを期待するために」5千円から3万円の会費に応じて朝鮮風俗、風景、静物といった指定画題の作品を贈呈していた(注21)。著書を切っ掛けに招待した韓国側は、訪問中の加藤を「日本評論家」という肩書で紹介していたが、加藤は「私は画家であるが評論家ではなく、また決して批評するために今度の招待に応じたのでもない」と記している(注22)。翌年の5月には日本民芸協会と韓国民芸協会との打ち合わせのため再来韓していた。この時は3週間滞在しながら済州島を訪問し、ソウルで浅川巧の墓地の発見と修復をもしていた。その結果、1965年、戦後初めての韓国民芸品展覧会「たくみ民芸展」― 94 ―― 94 ―

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