鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
107/643

が東京の三越本店と大阪に於いて開催された。10年以上、京都と東京を行き来しながら日韓交流に尽くした加藤は、1970年東京の居を閉じる。1973年6月には、東京WUM学園出版部より『韓国の美しさ』が再刊されたが、これは先に出版した『朝鮮の美しさ』のタイトルを変え、戦後の韓国訪問記など二十数篇を加え、色刷り挿絵などを入れたものである。再刊について加藤は履歴書に「有志知己の厚意と協力による」ものだと示している。発行人であるWUM総裁・高應喆は「刊行に寄せて」で「本書は、韓国の美しさを知っていただくためにも、一人でも多くの方に見ていただきたい」(注23)と再刊の目的を表れている。自筆『履歴書』は1979年日付で整理されており、1977年には加藤が病気療養をしていたことが確認されるため、この時期に加藤は身辺を片づけながら一生を回顧したと見られる。そして、1983年滋賀県大津市で84才で他界した。4.加藤松林人の在朝鮮日本人としての認識高崎宗司は『植民地朝鮮の日本人』(岩波書店、2002)で元在朝鮮日本人の朝鮮時代への対し方を自分たちの行動は立派なものだったとするもの、無邪気に朝鮮時代を懐かしむもの、そして自己批判しているものの三つのタイプに分けて説明しているが、第二のタイプ、即ち無邪気に朝鮮時代を懐かしむものの代表的な人物として加藤松林人を挙げ(注24)、その例として随筆画集『朝鮮の美しさ』を言及している。『朝鮮の美しさ』の「あとがき」で加藤は、「朝鮮の風物と人情の中で育てられた生活意識や感情は、そのまゝそれは現在の私の生活態度、判断の基準となり、朝鮮の美しさがすべての美しさに対する私の尺度になってしまった」と記している(注25)。これを見る限りでは、在朝鮮時代が加藤に大きな影響を与えたと思われるが、果たして加藤は「無邪気に」朝鮮時代を懐かしんでいたといえるのだろうか。戦前、在朝鮮日本人画家としての加藤には、植民者と被植民者の眼差しが複雑に絡み合っていた。「完全に処女地と言える朝鮮での我々朝鮮在住作家の悩みは、教えを受けて下さる師匠と先輩が居ないという事である。従って我々自らが先輩に成らなくてはならない」(注26)と言いながらも、朝鮮美展では「内地」から招かれた審査委員に評価される立場であり、「内地」の中央画壇の流行を追う立場であったからである。政治については一切語ることがなかった加藤が、戦後になると、自分の朝鮮滞在の経験から「北鮮帰還問題」と「在日朝鮮人問題」について共感しながら色々な記事を書いている。また、1957年12月には日韓会談によせて『親和』に「あいさつ」という― 95 ―― 95 ―

元のページ  ../index.html#107

このブックを見る