鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
108/643

記事を書き「韓国と交渉し成果をあげたいのならば、終戦の8月15日に返して、謝罪ということは日本としては考えられないにしても、朝鮮の人たちに惜別の言葉を述べ心からその独立への出発を祝福激励する公式な挨拶が必要であり、そこから初めて日韓交渉が可能になる」(注27)と語っている。「サンフランシスコ平和条約当時に返して出発せよ」という日韓親和会の理事長だった鈴木一の主張に対して、加藤が「終戦日」を原点に設定したということは、一見、日韓修交の問題が単なる戦後処理や外交関係の問題だけではなく、植民地支配という歴史的な事実に遡って考えるべきだと指摘しているようにも見える。しかし、同記事で、加藤は日韓併合を必然として捉えており、植民地統治が合法的だったという前提に立った上で在朝鮮日本人が「敗戦という打撃とともにすぐさま最も弱い外国在留者という立場においやれらた」地点から「道理」としての「あいさつ」が必要だと訴えているだけである。また、1954年9月に『親和』に書いた「朝鮮素材のもの」でも「朝鮮関係は普通の相互関係、いわゆるギブ・アンド・テエィクではなく、「施すものは幸なり」の気持ちでないと駄目だと考えている」(注28)と語っている。このような上からの目線から「独立を激励する」立場は、戦前、「処女地朝鮮の先導者の役割」を自ら担った立場と地続きの位置にある。尹健次が言う「植民地日本人の帝国意識」(注29)にほかならぬ意識であり、加藤も例外ではなかったことを表れている。戦後、1960年代前半まで日本社会に現れた植民地に対する記憶のあり方とは、一言でいえば、「体験的記憶」に対する「公共的記憶」の抑制だった(注30)。公共の記憶の中で朝鮮の植民地化は帝国主義の侵略、植民地に居住した日本人は帝国侵略の先兵として認識された。「帝国の亡魂」として植民地での記憶は公共の場では隠蔽され、この時期に私的に表出できる空間は朝鮮関連の集まりだけであった(注31)。高崎の指摘通り、加藤の植民地に対する記憶は「郷愁」に近いもので、その記憶を表出したのも確かに朝鮮関係者の集まる日韓親和会が中心になった。しかし、境界人として加藤は、その「体験的記憶」を隠蔽や歪曲するよりは、朝鮮に関する記事を書くことで公論化し、日本人が「朝鮮にもっと親しくなる」ことを望み、積極的に朝鮮の風景や風物を描くことで記憶を記録しながら戦後を過ごした。但し、ここで見逃せない事実は、「引揚げてからは祖国の片隅にまるで世捨人のような姿」(注32)で暮らしていた加藤に実質的に支援を続けたのは、逆説的にも大阪『新世界新聞』の社長をしていた柳棌鉉をはじめとする韓国YMCA関係者などの在日韓国人たちであったことである。― 96 ―― 96 ―

元のページ  ../index.html#108

このブックを見る