注* 本論文を提出してから喜多恵美子氏の「在朝鮮日本人画家加藤松林人の活動─自筆履歴書をめぐって─」(『大谷学報』2018)を発見したため、本文では言及できなかった。喜多氏は論文の中で加藤の自筆『履歴書』の全文を掲載した上で綿密な解説と分析を行っている。そのため、履歴書の部分に於いては本稿とも重なる内容がある。ただ、筆者は昨年阿南市役所での調査で提供していただいた加藤の自筆原稿のほぼすべてに目を通し、日本画家でありかつ在朝鮮日本人であった加藤の自意識をより幅広い見地から捉えようと試みている。大『近代転換期韓国画壇 日本画流入 受容─学院美術史学科 修士学位論文、2000;1870年代 1920年代』大学院美術史学科 博士学位論文、2004;『開花期・日帝強占期(1876-1945)在朝日本人情報事典』(高麗大学校グローバル日本研究院、2018)には⑴おわりに在朝鮮美術家としての加藤の生涯を考察することは、植民地と帝国の境界地域に位置した文化人らの多様な面と彼らの作品が持つ重層的な性格を理解し、一国中心の美術史の限界を越えようとする試みにつながる。本研究は、これまで断片的にしか紹介されてこなかった加藤の生涯や略歴を詳細に復元しつつ、1988年徳島県阿南市に寄贈されて以来、埋もれていた1000枚に及ぶ自筆原稿を読み、画家としての加藤の自己認識を把握しようとするものである。加藤の画風は、近代韓国美術史において指摘されてきた「郷土色(ローカルカラーズ)」の問題とはまた別の観点を与えている。というのは、加藤の作品は、民族アイデンティティを具現化するものでも、単純な異国趣味的な観点からエキゾチックな表現を求めたものでもない。その意味で二項対立の外側に位置するからである。加藤が在朝鮮日本人としての「帝国意識」から離れていなかったことは事実であるが、彼が描いた「朝鮮」は「内地日本人」が描いた「朝鮮」とも、「外地朝鮮人」が描いた「朝鮮」とも異なる変形の力学の産物であることも事実である。そして、戦後も「戦前の朝鮮」を描き続けた例外的な画家だった加藤の作品には、在日韓国人の故郷を懐かしむ地点と、元在朝鮮日本人画家である加藤のノスタルジアを覚える地点が出会っている。なお、『韓国の美しさ』は2018年に彩流社から復刻されたが、このことは今もこのような書を求める人々がいるということを示唆している。校訂者の高憲(1924-)は、「復刊版・あとがき」で「松林人画伯の描いた山岳の数々を眺めていると、十代後半ごろに回り歩いた朝鮮半島の山々を自ずと想い出して、万感に迫るものがある」(注33)と書いている。「南北朝鮮の融化に架け橋のような役割をしたい」という遺志を残した加藤の生涯は、従来の一国中心の美術史に新たな観点を与えている。『日帝時代在朝鮮日本人画家研究─朝鮮美術展覧会入選作家 中心』― 97 ―― 97 ―
元のページ ../index.html#109